聖書の言葉を聴きながら

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詩編 135:1〜7

2020年7月15日(水) 祈り会
聖書:詩編 135:1〜7(新共同訳)


 135は礼拝するために集った民に讃美を促す詩編のように思われます。神を指し示し、神が讃美に相応しい方であることを教えます。きょうは7節まで読んでいきましょう。

 135はハレルヤで始まり、ハレルヤで終わります。ハレルヤは「神(ヤー)を讃美せよ」という意味です。
 ハレルヤに続き「賛美せよ、主の御名を/賛美せよ、主の僕らよ/主の家に/わたしたちの神の家の庭に居並ぶ人々よ」とその場に集う全会衆に呼びかけます。
 続いてさらに「主を賛美せよ、恵み深い主を。/喜ばしい御名をほめ歌え」と、讃美の理由を示します。主が恵み深い方であり、わたしたちにとって喜ばしい方であるので讃美するのです。そして以下に恵み深い方である具体的理由、喜ばしい方である具体的理由を述べていきます。

 4節「主はヤコブを御自分のために選び/イスラエルを御自分の宝とされた。」
 「選び」ということが言われます。選びは、救いが神によるものであることを表します。日常生活において「選び」は、何らかの試験を受けて合格して選ばれる、自分の能力・才能が評価されて選ばれることを表すのが普通です。しかし神の民として選ばれるのは、わたしたちの能力や優秀さではありません。神はこう言われます。「あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」(申命記 7:6~7)
 主はわたしたちを選んだ上にご自分の宝としてくださいます。わたしたちの救いのためにイエス キリストを遣わしてくださるほどに、わたしたちを宝としてくださったのです。主はまことに恵み深い方です。

 5~7節「わたしは確かに知った/主は大いなる方/わたしたちの主は、どの神にもまさって大いなる方。/天において、地において/海とすべての深淵において/主は何事をも御旨のままに行われる。/地の果てに雨雲を湧き上がらせ/稲妻を放って雨を降らせ/風を倉から送り出される。」
 神は天地を造り、統べ治められるお方です。
 創世記冒頭の天地創造の記述は、バビロン捕囚の際に信仰告白として生まれたという理解があります。新バビロニアによって南ユダが滅ぼされ、指導者たちなど多くが捕虜としてバビロンに連れて行かれたとき、イスラエルの神よりバビロニアの神の方が強かったのかという動揺が起こりました。その動揺を静めたのは預言者の存在でした。神が預言者を滅びの前に多く立ててくださったから、神の言葉を聞かなかった自分たちの罪が滅びを招いたことに気づかされ、捕囚の地、異教の神々のただ中で新たな信仰告白へと導かれたのです。「どの神にもまさって」とはバビロニアの神々を指していたのでしょう。
 これに先立つ信仰告白は、出エジプトで救いを経験してなされたものですが、これは 8~14節で語られます。

 この世では、様々な困難が襲いかかってきます。今も新型コロナウイルスに生活が脅かされています。こういった感染症は神とは関係ない自然現象なのでしょうか。ある牧師はこう言います。「聖書の神は、疫病をもたらすことも止めることもできる全能の神です。しかし、それ以上に、病の如何にかかわらず、私たち人間を愛してくださる御方なのです。」(吉田隆牧師 神戸改革派神学校校長)
 天地を造り、そのすべてを統べ治めておられる神がおられることを知っている、信じている人と、神などいないと考えている人とでは、生きている世界が全く違います。科学は目に見える世界の現象を説明しますが、存在の意味・出来事の意味に気づくことはありません。神のいない世界では、意味は失われ、すべては「たまたま、偶然」に起こります。苦難に遭うことも、死ぬことも、命にも人生にも意味はなくなるのです。意味もまた神が造り出し、与えてくださるのです。多くの人は、神を否定し、自分で意味を作り出そうともがき苦しんでいます。

 詩編は神の民に語りかけます。6~7節「天において、地において/海とすべての深淵において/主は何事をも御旨のままに行われる。/地の果てに雨雲を湧き上がらせ/稲妻を放って雨を降らせ/風を倉から送り出される。」
 詩編は「主は何事をも御旨のままに行われる」と語りますが、聖書はすべての根柢にある主の御旨を告げ知らせています。それは一言で言うなら「神は独り子を与えるほどに世を愛しておられる」(ヨハネ 3:16)ということです。先程紹介した新型コロナウイルスについての牧師の言葉でも、神は「病の如何にかかわらず、私たち人間を愛してくださる御方」だと告白しています。日曜日に聞いた説教(ローマ 11:11~15)で言うならば、神は捨てることをさえ用いて救いの業をなしてくださるお方、すべてをわたしたちの救いのためになしてくださるお方なのです。
 この天地を造り、すべてを統べ治めておられる神を知り、共に生きるとき、神がわたしたちに意味を与え、わたしたちのすべてを支え導かれる幸いを知るのです。そして詩人と共に告白し、讃美します。5節「わたしは確かに知った/主は大いなる方/わたしたちの主は、どの神にもまさって大いなる方。」

 神を知る者は、神を喜ぶことへと招きます。「さぁ、主を喜び、讃えよう」と招きます。1~3節「ハレルヤ。賛美せよ、主の御名を/賛美せよ、主の僕らよ/主の家に/わたしたちの神の家の庭に居並ぶ人々よ。/主を賛美せよ、恵み深い主を。喜ばしい御名をほめ歌え。」
 神は、神を喜び生きるためにわたしたちを召してくださったのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちをきょうも讃美へとお招きくださり、感謝します。あなたを心から喜び讃美できるように、日々新たに、日々深くあなたを知ることができるように導いてください。どうかわたしたちの祈りを聞き、救いの業をなしてください。わたしたちの教会から讃美が溢れ、あなたをまだ知らない人々を讃美へと招くことができるように御業をなしてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン