聖書の言葉を聴きながら

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詩編 136:1〜26

2020年8月5日(水) 祈り会
聖書:詩編 136:1〜26(新共同訳)

 136篇は、135篇と同じく礼拝するために集った民を讃美へと導きます。内容も135篇とほぼ同じです。会衆は繰り返される「慈しみはとこしえに」を応答する形で讃美されていったのでしょう。


 1~3節

 今自分たちの前におられる神がどのようなお方かを「恵み深い主」「神の中の神」「主の中の主」という言葉で表します。
 このような表現を見て「聖書は唯一の神ではなく、自分たちの神が神々の中で第一の神であることを言い表している」という人もいますが、そうではないと思います。
 聖書は偶像礼拝を禁じています。そして周囲の諸民族が信じている神々がいますが、本当の神、本当の主という意味で「神の中の神」「主の中の主」という表現が使われているように思います。

 最後まで繰り返されていく「慈しみはとこしえに」は、「主の慈しみはとこしえである」という告白と、「主の慈しみがとこしえにありますように」という願いの両方だろうと思います。


 4~9節

 天地創造の神を讃美します。
 7節の「光」は複数形です。続く太陽・月・星を表しています。創世記 1:14に倣う表現でしょう。「神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。」
 8, 9節は、昼も夜も、すべての時に満ちる主の慈しみを指し示します。
 空間としての世界、時の流れの中にある世界が主の慈しみの中にあることを讃えます。神学的表現をするなら創造と摂理の神を讃美するのです。


 10~15節

 神が救いの神である原体験である出エジプトをなされた神を讃えます。
 困難の中から救い出される神。もうどうすることもできない、道を見出すことができないときに、道を開かれ導かれる神、敵を滅ぼされる神を讃えます。
 10~22節に出てくる今日的釈義の課題となる「初子を討つ」「王たちを滅ぼす」については、135篇のときに触れましたので、きょうは触れません。ただし歴史的現実の中で、イスラエルにとってはそれらは救いの神の経験でした。


 16~22節

 荒れ野の旅を導き、約束の地へ導かれる神を讃えます。
 嗣業は、他の訳では「相続地」(聖書協会共同訳)「ゆずり」(新改訳2017)「分け前」(フランシスコ会訳)と訳されています。
 18~20節は、18節に動詞があるだけです。聖書協会共同訳は「殺した」、新改訳2017は「(主は)殺された」、岩波版は「殺し」、フランシスコ会訳は「滅ぼされた」となっています。多くの訳が「殺した」と表現します。
 人生を導き、生きる場所を備えてくださる神を讃えます。


 23~26節

 この部分が、135篇との違い、136篇の特徴です。
 わたしたちが低くされ「神はわたしを忘れておられるのか」と思うときにも、御心に留めていてくださる神。わたしたちを敵から取り戻し、わたしたちを神のものとしてくださる神。創造された生きるものに糧を与え、命を与えてくださる神。天にいて、わたしたちを顧み、導かれる神を誉め讃えます。

 23節。低くされた者に対する神の顧みは、旧約の他の箇所にも出てきます。例えば、ヨブ 5:11「卑しめられている者を高く上げ/嘆く者を安全な境遇に引き上げてくださる。」
 そしてそれはキリストを宿したマリアの讃歌へと続きます。ルカ 1:52「権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ」。
 この讃美もまたイエス キリストにおいて成就しました。

 24節。キリストは、罪により死のただ中にあったわたしたちを神の御前へと高く引き上げてくださいました。罪の虜となっていたわたしたちを解き放ち、神の子、神のものとしてくださいました。

 25節。キリストは、主の祈りに「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」(マタイ 6:11)入れてくださり、わたしたちの命の配慮を日々の祈りにしてくださいました。神は命の主です。

 26節。「天にいます神」という表現は、ペルシア時代に広まったものだと言われています。
 旧約にはエジプト起源のもの、メソポタミア起源のもの、ペルシア紀元のものなど様々な文化が入ってきています。〈 聖書のオリジナルは神ご自身です。〉そして神は、神が創造された様々な民の文化を、神ご自身を指し示すもの、神の救いの御業を指し示すものへと清め・聖化されました。例えば、割礼はエチオピア起源と言われていますし、新約時代になってからはギリシャ哲学に由来する三位一体もそうです。わたし個人としましては、東洋の文化、日本の文化もいつか神を証しするものとして清め用いられる日が来ることを願っています。

 神の民は、神を誉め讃え、神を喜びつつ歩んでいきます。
 前回も申し上げましたが、新共同訳の102篇 19節には「主を賛美するために民は創造された」とあります。新しい聖書協会共同訳では「新たに創造される民は主を賛美するでしょう」です。神の民は、神を讃美します。なぜなら、神の御業を経験し、神を知っているからです。神の民には、主にある喜びがあるからです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたの民は、あなたにある喜びが与えられました。どうか今、わたしたちにもあなたにある喜びをお与えください。あなたの御業を経験し、あなたを知る者としてください。
 あなたにある喜びが、わたしたちの教会からこの地にあるすべての人たちへ注がれていきますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン