聖書の言葉を聴きながら

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ローマの信徒への手紙 11:16〜22

2020年7月26日(日)主日礼拝  
聖書:ローマの信徒への手紙 11:16~22(新共同訳)


 旧約には、神が与えてくださった恵みの最初のもの、初物・初穂を主に献げるという戒めがあります。「あなたは、土地の最上の初物をあなたの神、主の宮に携えて来なければならない。」(出エジプト 23:19)「わたしが与える土地に入って穀物を収穫したならば、あなたたちは初穂を祭司のもとに携えなさい。」(レビ 23:10)

 初穂という言葉は、パウロにとって馴染みの言葉です。パウロは言います。16節「麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。」
 元となる初穂・根が聖なるものであれば、それから生まれる練り粉・枝も聖であると言うのです。ここで言う初穂、根というのは、信仰の父アブラハムを指します。アブラハムは、神によって世の民から聖別された初穂であり、根である聖なるものです。そしてアブラハムから生まれる練り粉、アブラハムから育った枝も聖なるもの、神のものです。しかし17節「ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され」たのです。異邦人にキリストが伝えられ、神の民とされたのは、旧約の民イスラエルに接ぎ木されたのだと言うわけです。

 それはキリスト教会が、イスラエルから旧約の御言葉を引き継いだことからも分かります。わたしたちが持っている聖書は、旧約(キリスト以前の古い契約)と新約(キリストによる新しい契約)からなっています。旧約は紀元90年のヤムニア会議で確定されます。紀元70年にローマによりユダヤが滅ぼされ、エルサレムの神殿が破壊されました。これにより祭儀による信仰を保つことができなくなりました。信仰は祭儀から御言葉へと移らざるを得なくなりました。
 聖書は初めから「これは聖書です」と存在するのではありません。神がご自分を証しするために与えてくださった文書だとその権威が認められて聖書として受け入れられます。そこでユダヤ教の教師ラビたちによってユダヤ教の聖書の確定がなされました。
 こういう聖書確定の経過を指して「結局聖書は人間が決めたものでしょう」と言う人がいます。しかし聖書は、ユダヤ人にとって都合のいい話を集めたものではありません。そこには神の前に罪を犯してきた恥ずべき歩みが記されています。そしてなお民を憐み、語りかけ導かれる神が記されています。神の御前へと導かれ、自らの罪を知り、神の憐みと救いを知る。それが神の言葉である聖書なのです。神が自分たちに語りかけてくださった言葉の前に身を低くする神への畏れが聖書にはあります。まさに恵みとして神が与えてくださったものが聖書なのです。
 こうして確定されたユダヤ教の聖書をタナハと呼びます。トーラー(モーセ五書)、ネビイーム(預言者)、ケスビーム(諸書)の頭文字を採ったものです。諸書というのは、モーセ五書預言者に入らない詩編などの諸々の書のことを指します。
 キリスト教は、ユダヤ教で確定された39巻の文書を旧約として受け継ぎました。創世記からマラキ書に至る旧約の御言葉、信仰をキリスト教会は受け継ぎました。まさに新約の民は、旧約の民に接ぎ木されたのです。

 しかし異邦人キリスト者には当初から、ユダヤ人に対する驕りが見られたようです。17~18節「しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。」
 ユダヤ人に対しては、キリストを殺した民というレッテルが貼られます。加えて、民族的な違い、律法を重んじることから来る生活習慣の違い、例えばブタは食べないなど、「彼らはユダヤ人だからね」と蔑視される理由はいくつもあります。そして19節「枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった」つまり「ユダヤ人が捨てられたのは、異邦人が救われるためであり、異邦人が救われることこそが神の目的であった」というようなことが言われたようです。

 パウロは「枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった」という言葉に対して「そのとおりです」と肯定します。「ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。」しかしパウロは言います。20~21節「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう。」
 旧約を受け継いだのであれば、神がノアの洪水を起こされたこと、北イスラエルそして南ユダを滅ぼされたことも知っています。神は、悔い改めのため・救いのために必要とあらば、滅ぼすことも捨てることもなさいます。神を侮ってはなりません。わたしたちには神に対する聖なる畏れが必要です。

 だからパウロは言います。22節「神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。」
 パウロ、そして神は、わたしたちが神の慈しみに留まることを願っています。神の慈しみを受けるには、神に対する侮りは禁物です。わたしたちは、神の慈しみと厳しさを共に覚えることが必要なのです。

 救いは、神との生きた関係です。神と共に生きることを喜び、神の語りかけに聞き従います。神の御心を喜び、神の御心に希望を抱きます。神との関係は、愛と信頼の関係、生命の関係です。
 これを言葉で何か標本のように固定してしまうと生命を失われていきます。
 わたしたちの教会(日本キリスト教会)は、カルヴァン宗教改革に連なる改革派の教会です。改革派教会の特徴として、神が与えてくださった知性・理性を大切にし、神の言葉・聖書から繰り返し聞くことを重んじています。これを「御言葉によって改革され続ける教会」と言い表しています。ただし罪人の個性は常に弱さも併せ持っています。神の御心を忘れ、人間の論理に陥ってしまうことがあります。
 改革派教会の遺産の中にドルト信条(ドルト信仰基準)と呼ばれるものがあります。1618年にドルトレヒト会議で定められたものです。この会議では、カルヴァン主義の五つの特質と呼ばれるものが確認されました。その中に「聖徒の堅忍(Perseverance of the saints)」と呼ばれるものがあります。「神に選ばれ、召された民の救いは永遠に失われない」というものです。その根拠としてあげられる聖書の箇所に、きょうの少し後ローマ 11:29「神の賜物と招きとは取り消されない」があります。きょうの箇所でパウロが言っていることと矛盾するように思えます。

 こういう矛盾するように思える箇所は他にもあります。わたしはそれを人間の論理であれかこれかにしてしまってはいけないのだと思っています。そもそも最初に問題となった最重要教理である三位一体も二性一人格もそうです。神に三つの位格があるとはどういうことか。神は唯一ではないのか。キリストは神なのか人なのかどちらなのだ。教会は、そのどちらかを選ぶのではなく、神が啓示してくださったままに受けとめました。神は、父・子・聖霊なる唯一の神。キリストは、まことに神であり、まことに人である。きょうの箇所も同様に、神がお示しになるままに受けとめることが肝要ではないかと思います。

 神はわたしたちと生きた関係を築こうとしておられます。かつて信じたのではなく、今も信じている。かつて愛したのではなく、今も愛している。そうした生きた関係を求めておられます。神はわたしたちに、神を侮り、おごり高ぶることを戒めておられます。神の救いの御業がついに異邦人にまで及んだことを喜び、神を誉め讃えるのです。神が救いの御業の初穂として選ばれたイスラエルを軽んじはしないのです。自分を愛していてくれるこの世の親が、悪いことに対して厳しいことを畏れるように、天のまことの父に対して愛し、信頼し、そして畏れるのです。聖書を通して神が教えてくださるように、愛し、信頼し、同時に畏れを持っていくとき、わたしたちはおごり高ぶることなく、神の民、神の子とされたこと、今神の子であることを喜び、神との生きた関係に生きることができるのです。

 「神の慈しみと厳しさを考えなさい。・・神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。」


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちに対して生命が満ちる生きた関係を求め与えてくださることを感謝します。わたしたちは罪ゆえにあなたの御心からずれ、あなたから離れていってしまいます。そのわたしたちを主の日ごとに御前に立ち帰らせ、聖書を通して語りかけてくださることを感謝します。どうかあなたの慈しみの内に生きるあなたの子であらせてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン