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ローマの信徒への手紙 1:9〜11

2019年6月12日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 1:9~11(新共同訳)


 パウロは、まだ行ったことのないローマの教会、まだ会ったことのない人々に手紙を書いています。
 ローマでご自身の民を起こし、教会を建ててくださった神に感謝した後、パウロは「何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています」と語ります。
 パウロは「異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒と」(1:5)されました。ですから、この手紙の終わりの方では「あなたがたのところを経てイスパニアに行きます」(15:28)とも述べています。パウロは本当に当時の全世界、地中海世界全部にイエス キリストを伝えることを願っていました。
 ですから、パウロは本気で「何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています」と語るのです。

 これは、パウロの信仰の思いです。だからパウロは「わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださる」と、自分の思いの証人は神ご自身であると述べるのです。
 この9節の「心から」は、以前の口語訳では「霊により」と訳されています。口語訳は直訳で「霊により」と訳したのを、新共同訳はそれは「心から」という意味だと考えたようです。ちなみに最新の『聖書協会共同訳』でも「心から」と訳しています。
 パウロは、神に仕えるというとき、キリストの福音を伝えることを通して神の御業に仕えている、と言っています。それで、神に仕えているわたしの願いは、ローマへ行って、ローマの教会の人々に会いたい。そのために祈っている、そしてこの祈りが真実であることは神が証ししてくださる、と言っているのです。
 これは、自分の信仰を証しして、この手紙をちゃんと読んでほしいというパウロの願いが表れているように思います。

 そして、神を引き合いに出してまで、パウロが「何とかして・・あなたがたのところへ行ける機会があるように」と願っているのは、「“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたい」からです。

 この「霊の賜物」とは何でしょうか。賜物という言葉は、「カリスマ」(ギリシャ語)という言葉が使われています。このカリスマという言葉は、日本語になりつつある言葉です。「カリスマ美容師、カリスマシェフ、カリスマモデル」などという言い方をよく耳にするようになりました。日本では「第一人者」「その世界でも優れた能力を持つ人」というような意味で使われているようです。では、聖書において「カリスマ」という言葉はどういう意味でしょうか。ギリシャ語の辞書を見てみますと、「カリス」というのは「恵み」という意味で、「カリスマ」には「賜物、授かり物」とあります。

 パウロが「霊の賜物を幾分でも分け与えて、力づけたいから」というとき、自分の持っている力でローマの人たちを力づけてあげよう、と考えているのではありません。パウロはこの後、「カリスマ、賜物」を「恵みの賜物」「神の賜物」という言い方をしますが、「カリスマ、賜物」が何かが一番分かる表現を 6:23 でしています。パウロは言います。「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物(カリスマ)は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」。パウロは、ローマの人々と共に永遠の命というカリスマ、賜物に共に与りたいと願っているのです。
 もちろん、永遠の命はパウロの自由になるものではありません。けれど神は、永遠の命を与えるため、パウロ使徒とされました。ヨハネによる福音書 17:3 でイエスご自身がこう言われています。「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」。ここで言う「知る」とは、自分との関係において「知る」ことです。つまり、イエス キリストがわたしの救い主であることを知って、イエス キリストの救い、恵みに与るということです。そして、イエスご自身が「すべての異邦人」にキリストを伝え、真の神を知らせるために、パウロ使徒に召されました。
 「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられ」ます(1テモテ 2:4)。そして神がお遣わしくださった救い主イエス キリストは「わたしたちの罪のための、あがないの供え物で」あり「わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のため」の供え物です(1ヨハネ 2:2)。ですからパウロは、すべての人とこの恵みを分かち合いたい、共に与りたいと願っているのです。

 このすべての人が救われてほしいという神の思いに導かれて、パウロは生涯福音を宣べ伝えました。そして、パウロに続いて教会も、2,000年イエス キリストを宣べ伝えてきたのです。それは、ついにわたしたちのところにまで至りました。パウロの手紙を通して、今、神がわたしたちに語りかけておられます。神ご自身が、わたしたちに出会うことを願っておられ、霊の賜物すなわち永遠の命を分け与えて、力づけたいと願っていてくださるのです。

 ただし、時と計画は、神さまの領分です。パウロはそれを知っています。だからパウロは「いつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように」と祈り願います。そしてご存じのとおり、パウロはローマに行きます。しかしそれは、予想を超えて、皇帝の裁判を受けるために護送されてローマへと行きます。
 聖書にはこう言います。「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」(箴言 19:21)。救いは、神の御業であり、神のご計画です。イエス キリストが救い主として来られたのも、十字架にかかられたのも、そして復活されたのも、わたしたちの計画ではありません。永遠の命も、わたしたちの所有物ではありません。すべては、神の愛と真実のうちにあるのです。
 だから、わたしたちは祈ります。神が救いの御業をなしていてくださるので、委ねて、祈りつつ信仰の道を歩んでいくのです。

 このときわたしたちは、救いの完成という大きな幻を与えられます。
パウロの手紙を、神がお用いになるとき、2,000年の時を超えて、神の変わることのない御心を伝えてくださいます。
 アブラハムの信仰は空しくなりませんでした。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。・・あなたの子孫はこのようになる。」(創世記 15:5)神がアブラハムに言われた言葉は真実でした。アブラハムはイサクとイシュマエルという二人の息子しか見ませんでしたが、わたしたちは神の言葉が真実であったことを知っています。わたしたち自身がアブラハムの信仰の子孫です。
 旧約の詩人たちの祈りも空しくなりませんでした。イエス キリストが来られて、救いの御業を成し遂げてくださったからです。
 だから、わたしたちの信仰も決して空しくなることはありません。

 わたしたちは今、神の愛と真実に支えられ守られて、大きな希望の中を生きる者とされているのです。その神の愛と真実を知って、霊の賜物、永遠の命に与れるようにと、神は礼拝へと招き、神を知るように導いていてくださるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 どうかわたしたちにも霊の賜物を豊かにお与えください。恵みの賜物に満たされて、あなたを証しして歩むことができますように。いよいよあなたご自身を知って、あなたの希望に満たされていくことができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン