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ヨエル書 3章1〜5節

2019年6月9日(日) 聖霊降臨節 主日礼拝
ヨエル書 3:1〜5(新共同訳)

 きょうは聖霊降臨節です。イエスの弟子たちに聖霊が降り、伝道が始まったことを記念する日です。
 聖霊降臨節ペンテコステと言いますが、これはギリシャ語で50番目を表す言葉で、50日目を表します。イエスが復活された日から50日目に、弟子たちに聖霊が降ったと聖書は記しています。(使徒1~2章)ですから、聖霊降臨節は復活節から50日目、7週間後に祝われます。

 聖霊降臨の時、弟子たちは聖霊に満たされ、霊が語らせるままに他の国々の言葉で福音を語り始めました。それを聞いた人々はとても驚きましたが、中には「あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って嘲る者もいました。その人に対して「そうではない」とペトロが語り出しました。その時、ペトロが引用した聖書の箇所がきょう読みましたヨエル書3章の御言葉でした。
 ペトロはこの時、聖霊降臨の出来事がヨエル書に記された御言葉の成就であることを知ったのです。
 「その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。」
 その後というのは、ヨエル 2:18以下に記されている、主が民を愛し憐れんで、救いのための偉大な業をなしてくださった後のことです。救いの出来事の後で、主はすべての人にご自身の霊を注がれると約束されたのです。
 つまり、ヨエル 2:18以下はイエス キリストのことを指し示していて、イエスの地上での業が全うされ、天に昇られた後、3:1以下に記されているように、神が聖霊を注がれることが預言されていたのです。

 霊という言葉は神秘的な響きを持っています。霊とは一体何でしょうか。この霊と訳されるヘブライ語ルーアハは、風とか息とか空気のように目に見えないものの動き・働きを表す言葉です。
 霊の働きと、風や息には共通するところがあります。霊は神の御心のままに働きますから風のように自由です。そして息をすることによって命あるものが生きているように、霊はわたしたちを神の命で満たし、神と共に生きるものとするのです。
 わたしたちは目に見える体と目に見えない心とが息をすることによって、一人の命ある存在として一体となって生きています。同じように神の霊は、目に見えるわたしたちと目に見えない神とを一つに結び合わせ、神の命に生きる者とするのです。この目に見えるものと目に見えないものとを結び合わせる、というのが霊の働きです。そして聖霊は、神と結び合わせ、神の命に生きる者としてくださるのです。
 神は、わたしたちを罪から救った後に、神と共に生きていくように、ご自分の霊を注ぎ、わたしたちをご自分と一つに結び合わせてくださいます。

 「あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。」
 神の霊は区別なく注がれます。子どもたち、老人、若者、奴隷。男女の区別なく、年齢の区別なく、身分の区別なく、救いに与る者には皆、注がれます。神が愛しておられるすべての者が、霊によって神と一つに結び合わされるのです。
 霊が注がれると預言をし、夢や幻を見ると言われています。預言は、言葉を預かると書きます。一般に使われる未来をあらかじめ語る予言とは違い、神の言葉を語るのです。神を知るのに年齢や人生経験は関係ありません。子どもであっても救いの恵みの中で神を知る者は、神を証しします。そして、社会的な地位や能力も関係ありません。奴隷だから神を知ることができないなどということはありません。
 これはかつて出エジプトを指揮したモーセが願ったことでした。モーセは言います。「わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」(民数記 11:29)

 人は、罪により神の御心が分からなくなってしまいました。そして、人は自分の思いに囚われてしまい、自分の思いが実現し、自分の願いがかなえば幸せになれるという幻想に捕らえられてしまいました。
 わたしたちが罪の悲しみから救われるには、再び神の思いを知るようにならなければなりません。そして、神の思いを知らせ、神と結び合わせてくださるのが聖霊です。聖書は「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」(1コリント 12:3)と言っています。わたしたちは聖霊の働きにより、イエス キリストを知り、神の御心を知り、神ご自身を知るのです。

 夢や幻を、神はこれからどのような歩むべきか示すのに用いられました。老人も夢を見ます。人生が終わりに近いからもう見る夢なんてない、というのではありません。神の国で新しい命に生まれ変わるまで、わたしたちは神に導かれ、進み行くのです。思いをはせるべき神の国に至る道が目の前に開き示されています。
 若者は幻を見ます。箴言では「幻がなければ民は堕落する。教えを守る者は幸いである。」(29:18)と言われています。どのように生きるかという幻がなければ、聖書の言うとおり人は堕落していってしまいます。「今さえよければ」では滅びに向かっていってしまいます。何にでも挑戦でき、いろいろな可能性が広がっているように思える若者にも、神の導きが必要です。
 神は救いを必要とするすべての者に霊を注ぎ、ご自分と共に生きる者としてくださいます。

 それと共にこう言われます。「天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。主の日、大いなる恐るべき日が来る前に/太陽は闇に、月は血に変わる。」
 救い主が再び来られる終わりの日に、最後の審判が行われます。その日に向けて、人間の罪はいよいよあらわになり、この世に望みを置く者には、この世がいかに危うく頼りにならないかが示されます。ここで描かれているのは、戦争と天変地異だと言われています。地の支配者になろうとする人間の罪があらわになっていく中で、支配しようと思っていた地が揺らぎ、崩れだすのです。そしてわたしたちは今、そういう時代に生きているのです。

 人は、命も、賜物も、そしてすべてのものが与えられたものであることに気づかねばなりません。与えられているものなのに自分で思い通りに支配できると思うとき、人は大切なものを失ってしまいます。

 「しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように/シオンの山、エルサレムには逃れ場があり/主が呼ばれる残りの者はそこにいる。」
 しかし、罪があらわになり、頼りにしていたものが危うくなっても、なお救いの道は備えられています。最初に出てくる「しかし」が大事です。慌てふためくような事態の中にあっても、もうダメだと思えるようなときでも、「しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」のです。わたしたちの救いはどこにあるのか。神ご自身こそ、わたしたちの救いです。わたしたちを愛し、どのような罪の中にあるときにも諦めることなく呼び求めくださる神ご自身こそ、わたしたちの救いなのです。

 そして神は、罪の世に逃れ場を用意してくださいます。エルサレムは、神の民イスラエルの都であり、シオンはエルサレムが立つ丘の名前です。エルサレムという名前は、平和の町という意味です。イスラエルに神との平和に与る町エルサレムを用意してくださったように、今わたしたちには神のもとに立ち帰り、神の平和に与る場所として、教会が用意されています。教会は、神の霊を受け、神の平和に与る場です。霊に導かれて神の言葉が語られ、聞かれる場です。共に神の御名を呼び求める場であります。

 パウロもローマの信徒への手紙の中でヨエル書を引用してこう語っています。「聖書にも『主を信じる者は、だれも失望することがない』と書いてあります。・・すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです。」(ローマ 10:11~13)
 主を信じる者は誰も失望しないのです。主を呼び求めるすべての人を、神は豊かに恵まれます。誰一人として「わたしは無理だ。救われない」と諦める必要はありません。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるため」(ヨハネ 3:17)なのです。「神は・・独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」(ヨハネ 3:16)にイエス キリストをお遣わしくださったのです。

 今、自分自身、そしてこの世に向けられている目を、神へと向けましょう。神を知ることができるように聖霊を祈り求めましょう。神は聖霊を注ぎ、代々の聖徒たちを導いてこられました。「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ 11:13)のです。

 聖霊は、キリストの命の恵みでわたしたちを満たしてくださいます。そして聖霊に導かれ神の許に立ち返っていくとき、神が愛しておられる兄弟姉妹たちに出会っていくでしょう。その時、イザヤが預言した霊の注がれる日が現れてきます。「ついに、我々の上に/霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり/園は森と見なされる。/そのとき、荒れ野に公平が宿り/園に正義が住まう。/正義が造り出すものは平和であり/正義が生み出すものは/とこしえに安らかな信頼である。/わが民は平和の住みか、安らかな宿/憂いなき休息の場所に住まう。」(イザヤ 32:15−18)


ハレルヤ


父なる神さま
 今年も、あなたが聖霊を与えてくださることを心新たに覚える聖霊降臨節へと導いてくださり、感謝します。聖霊により、あなたと結ばれ、あなたの命に新しく生きるあなたの民、あなたの子としてください。どうか救いの恵みの中で、あなたの平和に生きることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン