聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ローマの信徒への手紙 12:3〜8

2020年9月20日(日)主日礼拝  
聖 書  ローマの信徒への手紙 12:3~8(新共同訳)


 きょうの箇所から信仰生活・教会生活の勧めがなされます。
 救いは、神と共に生きるところにあります。神はそのために独り子イエス キリストを遣わしてくださり、神と共に生きることを妨げる罪をキリストの十字架において贖ってくださいました。だからパウロは自分自身を神に献げ、神と共に歩みなさい、と勧めます。
 聖書がわたしたちになす勧め、すなわち、神がわたしたちに求めておられることは、神と共に歩みなさい、救いにふさわしく歩みなさい、ということに尽きるのだろうと思います。これを忘れて、細かな点にこだわっていくと、律法主義に陥ったり、自分の義に引かれていって神から離れていってしまいます。

 パウロは「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言う」と言います。与えられた恵みとは、キリストの救いに他なりません。12:1で「あなたがたのなすべき礼拝」という言い方をしていますが、その意味するところは「キリストの救いに与った者としてふさわしい仕え方をする」ということです。パウロも今「キリストの救いに与った者として」語ります。

 きょうの箇所では「自分を過大に評価してはなりません」というところが印象に残るかもしれません。特に謙遜を美徳とするわたしたち日本人にとっては「そうだよね」と思ったかもしれません。
 しかしここで注目して頂きたいのは「信仰の度合いに応じて」というところです。他の訳では「信仰の秤に従って」(聖書協会共同訳)、「信仰の量りに応じて」(新改訳2017)というように、度合いと訳されている所を秤(量り)と訳しています。判断の基準という意味で「秤(量り)」と理解した方がよいのではないかと思います。度合いと捉えると、自分の信仰は小さいとか弱いといった方向に陥りかねません。ここは基準という意味なので、秤(量り)の方がいいかなと思います。
 わたしたちは判断をするための秤・基準を持っています。一番分かりやすいのが、どちらの方が安いのかという金銭的基準です。そこに品質、耐久性、アフターケアなどが合わせて基準として考えられていきます。
 しかし物に対する基準が、そのまま人に適応されるとそれは神の御心とは違ってきます。近年人に対しても物と同じように、役に立つかどうか、有用かどうか、お金になるかどうかといった基準を当てはめたが故の事件が起きてきています。事件までいかなくても、そういった考え方がお互いの関係をいびつなものにしてしまっている現実はたくさんあるような気がします。
 ここで聖書が言っているのは、自分に対して、お互いに対して、神が一人ひとりに与えてくださった信仰の秤(量り)によって慎み深く判断しなさい、ということです。

 信仰の秤(量り)で人を見たときに明らかになるのは、神がわたしたちを愛していてくださるということ。わたしたちの罪を贖うためにキリストが十字架を負ってくださったということ。神がわたしたちと共に生きたいと願っておられるということです。
 このような評価であれば、何故パウロは「自分を過大に評価してはなりません」と言うのでしょうか。それは、これまで書かれてきたように、イスラエルは異邦人に対して誇り、異邦人はイスラエルに対して誇るという問題が教会にはあるからです。イスラエルは異邦人に対して「自分たちは旧約を知っている。割礼も受けている。きのうきょう神を信じた異邦人とは違う」という思いを持っており、異邦人はイスラエルユダヤ人)に対して「彼らは神が遣わしてくださった独り子イエス キリストを拒絶し、殺してしまった。だから彼らに代わって自分たちが選ばれた」と思っていて、それぞれが自分たちを過大に評価していたからです。
 イスラエルも異邦人も、信仰の秤(量り)で自分たちを、そしてお互いを見ていませんでした。

 だからこの後の展開は、5節「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」となっていくのです。信仰の秤(量り)で見たら、自分たちはどういう存在なのかをパウロは示すのです。パウロが明らかにするのは、わたしたちキリスト者はすべて、キリストに結ばれ、キリストの命に繋がっている存在であり、バラバラではない、キリストの体として共に生きる存在なのだということです。

 「教会はキリストの体」という言葉は、日本キリスト教会信仰の告白でも言われています。「教会はキリストのからだ、神に召された世々の聖徒の交わり」であると告白しています。聖書では、コリントの信徒への手紙 一、エフェソの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙に、キリストの体としての教会ということが出てきます。
 きょうの箇所では4~5節「わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」と言われます。これがキリストを頭と頂く教会の姿です。主であるキリストの御心をなす教会の有り様です。

 続くパウロの勧めは具体的になっていきます。「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています」。わたしたちは一人ひとり違います。賜物に関しては、神は平等にはなさいませんでした。
 ここでは預言、奉仕、教え、勧め、施し、指導、慈善の賜物が挙げられています。これらはキリストの三職、三つの職務と呼ばれるものに属する務めです。キリストの三職は、預言者・王・祭司です。預言者は語る務め、王は治める務め、祭司は執り成す務めと言われています。ここでは、預言者の務めには預言と教え、王の務めには勧めと指導、祭司の務めには奉仕と施し・慈善が当たるでしょうか。務めの名前は、時代や教派によって変わります。

 教会の頭はイエス キリストです。そしてキリストの御心をなしていくのが、キリストの体なる教会です。キリストが果たされた預言者・王・祭司という三つの職務を教会は担っていきます。
 本来、キリストに結ばれたわたしたち一人ひとりもキリストの三職を引き継いでいます。例えば、親の場合、子どもに対して御言葉を教え伝える預言者の務めを負っています。キリストに従い救いの道を歩んでいけるようにキリスト者の生き方を自ら示し教えていく王の務めを負っています。そして子どものために執り成し祈る祭司の務めを負っています。そして教会は、一人ひとりがキリストの三職を担って生きていけるように、預言者・王・祭司の務めを果たし、模範を示していきます。
 一人ひとりが、与えられた場において、託された人々に対して、キリストを証しし、キリストの三職をなしていくのです。神が一人ひとりを用いて御業をなされます。神が一人ひとりの務めを求めておられます。

 ですから、わたしが説教するのは、皆さんが御言葉を教えるという務めができるようになるためでもあります。
 わたしは神学校に行くことを、父親に強く反対されました。その父が、同級生の葬儀に出る機会が増えてきたとき、電話をかけてきて「キリスト教では死についてどう教えているのか」と聞かれました。
 わたしは神の御心を尋ね求める人に対する教会の責任として説教者として立てられています。そしてもう一方で、キリスト者である皆さんが親や兄弟、子どもや孫、また友人から救いについて、神について尋ねられたときに神を指し示すことができるように御言葉を解き明かす牧師として、預言者の務めを担っています。聖書は語ります。「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。」(1ペトロ 3:15)
 そして長老は、自ら神に従い、神と共に歩む模範を示す務めを教会員に対して負っています。
 執事は、神とのつながりを執り成す務めを果たします。訪問やハガキなどを通して問安し、礼拝に集えなくなってきている人のために執り成し祈ります。
 それら教会でなされるキリストの三職を見て、教会員は神に与えられた家族、友人たちのためにキリストを証しする務めを果たすのです。

 わたしたちは、他者も自分自身も、神が与えてくださった信仰という秤(量り)で見るのです。
 3節には「慎み深く」とありますが、これは謙遜にというよりも「丁寧に」「神の御心を求めて」といった感じでしょうか。神がどんな賜物を与えてくださり、どう仕えることを求めておられるのか、それを聞き取るのがまさしく信仰です。

 その信仰で聞き取った神の御心を、教会で、またそれぞれが与えられた場で「信仰に応じて」仕え、「専念し」「精を出して」「惜しまず」「熱心に」「快く」なしていくのです。
 わたしは、この中では「快く」が特に大事かなと思います。快くではなく、義務感になってしまうと、律法主義的になっていきますし、熱心も過ぎると、かつてパウロもそうであったように、迫害することも正しいとなっていきます。これらは神の御心から逸れていっています。神の救いの御業、神の御心という視点で見て、できることを喜んでする。足りないところを神が補ってくださることを祈りつつ仕えていくのではないでしょうか。

 わたしたちを召してくださった神が、わたしたちを用いて救いの御業をなしてくださることを望み見ながら、共に救いを喜びながら、神に・キリストに従う救いの道を歩んでいきたいと願います。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちを求め、救いの御業のために用いてくださることを感謝します。あなたが与えてくださった信仰の秤でわたしたち自身や世界を見るのには、あなたの導きと訓練が必要です。あなたの御言葉によってわたしたちを養い、あなたの御心と御業から理解し、仕えていくことができますように。どうか信仰から信仰へと導いてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン