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ローマの信徒への手紙 4:9〜12

2019年10月23日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 4:9〜12(新共同訳)


 パウロは割礼について語ります。これは、ユダヤキリスト者が救いについて正しく知ることを願ってのことです。

 11節に「アブラハムは割礼というしるしを受けた」とありますが、アブラハムが割礼を受けたのは創世記 17章に出てきます。「あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。」(創世記 17:10)と記されています。
 割礼とは、男性の生殖器の包皮を切り取ることで、創世記 17:11で「包皮の部分を切り取りなさい」と命じられています。

 割礼は、旧約の民イスラエルだけの儀式ではありません。紀元前5世紀に書かれたヘロドトスの『歴史』という本の中で「エジプト人エチオピア人が昔から割礼を行っている」と書かれているそうです。そこでは、成人の儀式として行われていたり、結婚の際に家族になるしるしとして行われたり、子孫に恵まれる儀式として行われたりしていたようです。(Wikipedia「割礼」を参照)
 しかし神は、神の民とされた契約のしるしとして割礼を受けるように命じられました。神と共に生きるしるしとして「生まれてから八日目に割礼を受けなければならない」(創世記 17:12)と命じられました。

 パウロは、このアブラハムの割礼が彼が義と認められた後の出来事であることを示して、9節で「この幸い」と言われている罪の赦しは、割礼によるのではなく、神を信じたことによるのだと主張します。
 確かに、神がアブラハムを義と認められた出来事は、創世記 15章に記されています。創世記 15:6には「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」と書かれています。そして割礼が命じられたのは、創世記 17章です。
 パウロはこれを、アブラハムが「割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです」(11, 12節)と理解しています。つまり、割礼を受けて神を信じている者と、無割礼で神を信じている者の両方の信仰の父となるために、神は、アブラハムが主を信じたことを義と認めた後に、割礼をお命じになった、と述べているのです。

 パウロがなぜここまで割礼にこだわるかと言いますと、これは何によって救われたか、という救いの根本に関わるからです。現在、教会では救いを示すしるしとして、イエスがお命じになられた洗礼と聖晩餐を行っています。しるしというのは、神の約束の目に見えるしるしです。洗礼もまた、アブラハム以来の割礼と同様、キリストを信じて、罪を赦され、清められたしるしとして、信じた後に受けます。
 割礼を受けたから、洗礼を受けたから、救われ義とされるのではありません。キリストと出会い、キリストによって罪赦され、清められたことを知って、キリストを信じた後に、救いの恵みのしるしとして洗礼を受けるのです。わたしたちは割礼や洗礼というしるしによって救われるのではなく、神の救いの御業、イエス キリストによって救われるのです。

 聖書が告げる救いは「神へと立ち帰り、神と共に生きる」ということです。もし洗礼によって救われるというのであれば、教会は洗礼だけをしていればいいわけです。けれど毎週、主が復活されたことを覚える日曜日に礼拝を献げ、神へと思いを向け、神の言葉を聞いて、神に立ち帰り、神の許から新たに歩み出すということを繰り返すのは、神と共に生きるということにわたしたちの救いがあるからです。
 そして、神の許に立ち帰ることができるように、神がイエス キリストを遣わし、わたしたちの罪の贖いを成し遂げてくださり、キリストがわたしたちの命となってくださいました。教会でそのことを聞いて「確かにキリストがわたしの救い主となってくださった」ということを知って「わたしもキリストを信じます。キリストの救いを受けたいと思います」と願い出た人が洗礼を受けるわけです。何も分からなくても、洗礼を受けたら救われます、と言って洗礼をするのではありません。
 わたしたちの救いはイエス キリストご自身にあるのであり、キリストに救われて神と共に生きるところにあります。ですからパウロはキリストは信じているけれども「割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」(使徒 15:1)と言う人たちに対して「そうではない」と言っているのです。
 パウロは「わたしたちはキリストによって救われている、イエス キリストこそわたしたちの誇りであり、希望である、だからイエス キリストにこそ依り頼む」という信仰こそが大切であること、神が与えてくださった恵みを変質させてはならないことを、同じ旧約の信仰に生きてきたユダヤキリスト者たちに伝え、神の恵みによって救われている喜びに共に与ろうとしているのです。

 宗教改革マルティン ルターという人は、救いの確信をなかなか得られず苦しんだ人でした。ルターはその不安に襲われたとき、机に向かいペンを取って、「わたしはキリストの洗礼を受けた者である」と何度も書き記したと伝えられています。
 罪の世にあって、わたしたちの信仰はしばしば揺らぎます。その弱さを抱えたわたしたちのために、神は神の恵みを心に刻む目に見えるしるしを与えてくださったのです。洗礼は、キリストが救い主であり、キリストによって救いに入れられていることを確認するための恵みの賜物なのです。わたしたちは、この恵みの賜物を通して、神がわたしたちを造り愛していてくださっていること、神がわたしたちを救っていてくださることを、共に喜び、感謝したいと思います。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたがわたしたちのために備えてくださったしるしを正しく受けることができますように。しるしを通してわたしたちの救いであるイエス キリストへと思いを向け、依り頼んでいくことができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン