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ローマの信徒への手紙 6:20〜23

2020年3月4日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 6:20〜23(新共同訳)


 神は、わたしたち罪人との間に「信じる」という関係を築こうとしておられます。それは神の民を選ばれた初めからそうでした。イスラエルの祖アブラハムに対して「アブラム(アブラハムと改名するのは17章から)は主を信じた。主をそれを彼の義と認められた。」(創世記 15:6)神は、神とわたしたちの関係は「信じる」のが正しい(義である)と考えておられます。

 神は時至って、ご自身の御子を救い主として世に遣わされました。それがイエス キリストです。神は、救いを成し遂げられたイエス キリストを信じることにより、わたしたちとの間に正しい関係(義)を築こうとされました。パウロはそれを「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」(ローマ 3:22)と言いました。

 ですが、パウロが「イエス キリストこそ救い主であり、わたしたちはキリストを信じることを通して義とされる」と語っていくと、律法を守ることによってではなく、キリストによって救われるのであれば、「恵みが増し加わるのを期待して、罪の中に留まる」というのはどうでしょうか(6:1 フランシスコ会訳)とか「恵みの下にあるのだから、罪を犯してもいいんじゃないでしょうか」(6:15)などと言う人が現れました。

 それに対してパウロは「決してそうではない」(6:2, 6:15)と言って、6章の前半では洗礼を取り上げ、キリスト者はイエス キリストと結び合わされ、キリストと共に罪に死に、キリストと共に復活し、新たに神に対して生きる者とされていることを示しました。
 そして6章の後半では当時の人々の周りにいた奴隷を例えとして、イエス キリストが主となってくださったということの意味を明らかにして、神と共に生きることを伝えようとしています。

 20節に罪の奴隷とありますが、罪の奴隷とは罪の導きに従ってに生きることです。聖書の語る罪とは、神の御心・教えから離れ、自分の思いに従って生きることです。「罪の奴隷であったときは、義に対して自由の身でした」とは、神とは無関係であった、神と正しい関係ではなかったということです。
 「では、そのころ、どんな実りがありましたか。」
 パウロは答えます。「あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。」

 これを聞いて多くの人は抵抗を感じるのではないでしょうか。「パウロは言いすぎではないのか。信仰を持つ前だって、人に恥じるような生き方をしてきた訳ではない」。

 神と共に歩まないうちは、わたしたちは罪に気づくことがないので、仕方ないかもしれません。
 パウロが問題にしているのは「罪人がなした業はどんな実を結んだのか」ということです。もう少し踏み込んで言いましょう。「あなたのなした業で命という実を結んだ業がありましたか。あるのであれば、言ってみてください」と言っているのです。
 もちろん、命の実を結ぶような業はキリストの十字架と復活以外にはありません。わたしたちのなす業は、良心に従った善意の業であっても、命の実を結ぶことはありません。わたしたちは神の御心と完全に一致する業をすることはできず、絶えず神からそれていきます。それをパウロは「それらの行き着くところは、死にほかならない」と言っているのです。

 これは信仰を持っている人でも、なかなか受け入れることができません。信仰を持って教会に集っている人は、基本善意のいい人です。できる限りよいことをして生きていこうとしている人です。そういういい人は、自分の善意を自覚しています。信仰を持つ以前の自分を恥ずかしいとばかり思っている訳ではありません。ささやかではあっても自分の正しさを感じています。
 しかし、わたしたちの善意も正しいと思う業も、どれ一つわたしたちに命をもたらすものはありません。自分でどんなに意味がある、よかったと思っていても、それは罪を贖い死から自分を解放することはできません。命を得ることはできないのです。キリスト以外に救いはないし、キリスト以外に永遠の命もありません。
 ですから、自分の業に依り頼むことも、自分の業を誇ることもできないのです。たとえ信仰であっても依り頼むことはできませんし、誇ることもできません。イエス キリストご自身以外のものを誇る者は、主を見ていないし、神を見ていないのです。

 しかしパウロはさらに語ります。「今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます」と。

 わたしたちは、聖霊により信仰を与えられ、キリストを信じるに至りました。キリストにより罪の赦しを受け、キリストの命に与りました。キリストの救いにより、天に真の父を持つ神の子とされました。
 わたしたちは命を造り出すことはできません。命は神から与えられるものです。そして救いも神から与えられるものです。
 キリストを知るとき、神が限りない愛を注ぎ、このわたしに命を与え、救いを与え、さらに新しい命をさえ与えてくださることを知って、信じるのです。信じたから救われるのではありません。神が御子イエス キリストを遣わしてくださり、救いを成し遂げてくださったから信じるのです。信仰は救いの根拠ではありません。信仰もまた神から与えられた恵みです。信じられない罪の世にあって、神ご自身が信じられる存在となってくださり、わたしたちを信じて生きる恵みへと導き入れてくださったのです。神の恵みに与って生きるその第一歩が、信じるということなのです。

 わたしたちの信仰は土の器です(2コリント 4:7)。弱くもろい土の器です。神はこの土の器に、イエス キリストという恵みを注いでくださいました。わたしたちは恵みの大きさを思うごとに、救いが「わたしたちから出たものでないことが明らかになるため」(2コリント 4:7)という聖書の言葉を思い起こします。
 しかし神は、そのわたしたちの信仰を「聖なる生活の実を」結ぶものとしてくださいました。「聖なる生活」とは「神と共に生きる」生活のことです。礼拝し祈りつつ歩む生活、御言葉と聖霊に導かれて歩む生活です。そして神が与えてくださった聖なる生活は、永遠の命へと至るのです。

 だからパウロは力強く宣言します。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」

 何という恵み! 神はわたしたちに御子イエス キリストを与えてくださり、その復活の命、永遠の命にまで与らせてくださっています。そして「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない」(ヘブライ 13:8)お方です。わたしたちの信仰という土の器に、キリストの恵みがきのうも、きょうも、いつまでも途絶えることなく注がれているのです。神の尽きることのない愛が、恵みとなって命を注ぎ続けていてくださるのです。

 だからわたしたちは、「聖なる生活」とは「神と共に生きる」生活をするのです。礼拝し祈りつつ歩み、御言葉と聖霊に導かれて歩むのです。聖なる生活は、神との交わりの時、神の恵みを覚え、その恵みに与る時、祝福の時です。


ハレルヤ


父なる神さま
 救いを与えてくださり、感謝します。イエス キリストを与えてくださり、感謝します。永遠の命を与えてくださり、感謝します。信仰を与え、信じて生きる恵みを与えてくださり、感謝します。どうかあなたご自身に目を向け、思いを向け、あなたに依り頼み、あなたを誇りとして歩ませてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン