聖書の言葉を聴きながら

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ヨハネによる福音書 2:1〜12

2019年3月3日(日) 主日礼拝  
聖書箇所:ヨハネ 2:1〜12(新共同訳)


 きょうの箇所では「最初のしるし」という言葉が出てきます。ヨハネによる福音書では「しるし」という言葉が17回も出てきます。4つある福音書の中で最も多く出てきます。
 では一体きょうの記事は、どんなしるしなのでしょうか。

 最初に「三日目に」とありますが、1:29に「その翌日」とあり、1:35さらに1:43にも「その翌日」と出てきます。この3箇所は1:19~28の翌日の出来事として書かれています。さらにその翌日の三日目の出来事としてきょうの箇所が書かれています。

 ガリラヤのカナという場所で婚礼が行われていました。当時の婚礼は、1週間続く村の一大イベントでした。そこにはイエスも、イエスの弟子たちも、さらにイエスの母もいました。
 おそらく結婚した二人の家はそれほど裕福ではなかったのでしょう。客のために用意したぶどう酒が足りなくなってきました。
 その時イエスの母は、イエスに「ぶどう酒がなくなりました」と告げます。彼女はイエスがこの状況を解決できると期待していたのでしょうか。母の思いは何も書かれていないので分かりません。

 イエスは母の言葉に対してあまりにも素っ気なく答えます。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」。
 既にイエスの救い主としての歩みは始まりました。イエスの歩みを導くのは、父なる神の御心です。しかし彼女は、自分の思いを超える父なる神の御心を知っていました。父なる神の御心を受け入れてイエスを生んだ彼女は知っていました。
 そこで彼女は、近くにいた召使いたちに言います。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」。

 その家には清めに用いる石の水がめが六つも置いてありました。水がめは2から3メトレテス入りのものでした。わたしたちが日常で使うリットルに換算すると、78〜117ℓぐらいになります。わたしたちが今見かける形のそろった器ではなく、大体このくらいといった感じの不揃いのものだったようです。

 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たしました。
 そしてイエスは言われます。「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」。召し使いたちは言われたとおり運んで行きます。
 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をしました。世話役は、このぶどう酒がどこから来たのか知りませんでした。そこで世話役は花婿を呼んで言います。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」。

 そして聖書はこう記します。「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」。

 この話はわたしにとっては不思議です。母はイエスに何を期待したのでしょうか。最初のしるしだと言っていますが、何のしるしなのでしょうか。水がぶどう酒に変わったことが救いに何の関わりがあるのでしょうか。わざわざ福音書に記すほどこの出来事のどこに福音があるのでしょうか。
 説教の準備はいつでも、聖書を読んで感じる疑問の答えを求めて準備します。聖書を通して神が何を語りかけておられるのかを求めて準備します。

 ここでヨハネによる福音書の意図を考えてみましょう。
 福音書は 1:19以下で、洗礼者ヨハネの弟子たちにイエスが救い主であることを伝えようとしてきました。洗礼者ヨハネは、旧約最後の預言者です。ですから、洗礼者ヨハネからイエスへと導かれることは、旧約から新約へと進み行くことです。このヨハネによる福音書の編集者は、この出来事にそのしるしを見たのです。

 イエスは、水をぶどう酒に変えられました。水は清めのための水でした。清めは、旧約を象徴する行為です。その水がぶどう酒に変わったのです。
 新約でぶどう酒と言えば、聖晩餐のぶどう酒です。ぶどう酒はキリストの血を表すものです。キリストの血はわたしたちの罪を贖い、清めます。神の恵みによって新しく生きることの象徴、しるしです。水がぶどう酒に変わったのは、旧約から新約へと変わった、キリストによって救いが成就し、古い契約(旧約)から新しい契約(新約)に変わったしるしです。

 だから福音書の編集者は、この出来事がイエスの最初のしるし、救いの到来・成就のしるしであったと考えたのです。

 さらにこの福音書の特徴は、一つのことに複数の意味を重ねます。
 例えば、1:38でヨハネの弟子たちがイエスに「どこに泊まっておられるのですか」という言葉に「何に根ざしておられるのですか」とか「何につながっておられるのですか」という意味を重ねています。(参照:ヨハネ 1:35~42説教)

 ここでは、結婚式の喜びが増すように水をぶどう酒に変えられました。聖書で結婚は、キリストが花婿で、わたしたちは花嫁と例えられます。この奇跡は、わたしたちがキリストと結ばれ、救いに入れられることを神が喜ばれるしるしです。清めの水がぶどう酒へ変わる。それが旧約から新約へと至るキリストの救いを表すものです。キリストによって罪が贖われ、キリストと結ばれて神の子とされるのです。そして神の国へと招き入れられます。永遠の命が与えられるのです。結婚式の奇跡は、救いを喜ばれる神を象徴する出来事です。

 また、神と共に生きることに欠けが生じてしまうとき、丁度ぶどう酒がなくなってしまうような欠けが生じてしまうとき、それを補ってくださるのはキリストの御業であることを示しています。日常の中で、このままではダメかもと思ったときには、イエスの母のように「足りなくなりそうです、ダメになりそうです」と祈るのです。キリストの御名によって神に祈るのです。すぐに祈りが聞かれないように思えても、清めの水がめを一杯にしたからどうなるのだと思っても、イエスの言葉、神の導きに従うとき、そこに神の栄光が現れてくるのです。
 11節で「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」とあります。聖書において栄光とは、神が救いの神であることが明らかになることです。祈りつつイエスに従う日常の中で、キリストはその栄光を現してくださいます。神があなたの救いの神であってくださることを、あなたが救いの中に入れられることを、神は喜んでおられるということを明らかにしてくださいます。
 そして最後には、神の国で最もよいぶどう酒が用意されているのです。キリストはわたしたちを最もよきものが備えられている神の国へとわたしたちを導いてくださるのです。わたしたちはきょう、聖晩餐に与りますが、聖晩餐は終わりの日の祝宴、神の国の祝宴を指し示すしるしです。

 この福音書は、終わりの方 20:30, 31でこう書いています。「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。
 この最初のしるしは、福音書の編集者が、キリストがなした多くのしるしの中から、イエスを信じて命を受けるために知ってほしいと選んだしるしです。このしるしには、受けても受けてもなくならない神の救いの恵みが込められています。
 イエスは言われます。「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ 4:14)。
 是非、イエスご自身から溢れてくる命の水、祝福のぶどう酒を飲んで、キリストの喜びに満たされて、恵みの中を歩んでいって頂きたいと願っています。


ハレルヤ


父なる神さま
 どうかわたしたちの日常においてもしるしを現してください。キリストの命の水、祝福のぶどう酒に与って、あなたの喜びで満たしてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン