聖書の言葉を聴きながら

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マタイによる福音書 27:32〜54

2020年4月5日(日)主日礼拝  
聖書:マタイによる福音書 27:32~54(新共同訳)


 今週は受難節最後の週、受難週です。今週の金曜日が、キリストの十字架を記念する受苦日です。きょうはキリストの十字架の場面をマタイによる福音書から聞いてまいります。

 イエスゴルゴタという処刑場に連れて行かれます。ゴルゴタというのは聖書にあるように「されこうべの場所」という意味です。
 わたしはこの十字架の場面以外でされこうべという言葉を使うことがありません。若い人はもはや使わない日本語かもしれません。訳によっては「髑髏」としているものもあります。ここは小さな丘で、二つの洞穴があり、それが頭蓋骨の目のところのように見えると言われています。(新共同訳聖書 聖書辞典、新教出版社

 兵士たちは「苦いものを混ぜたぶどう酒」を飲ませようとします。これは痛みをやわらげる麻酔の効果があると考えられていたものです。十字架に付けるため手と足に釘を打ち込みますから、騒ぎ暴れるのを抑えるためでしょう。しかしイエスはなめただけで、飲もうとされませんでした。

 兵士たちは「イエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合いそこに座って見張りをして」いました(35, 36節)。
 「イエスの頭の上には、『これはユダヤ人の王イエスである』と書いた罪状書き」が掲げられていました(37節)エルサレムの指導者たちは王に従う者ではなく、自分たちが王として振る舞うために真の王であるイエスを亡き者としたのです。
 「イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられて」いました(38節)。

 十字架の前を通り過ぎる者たちは「頭を振りながらイエスをののしって]言います。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言います。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしりました。

 ここには人間にとって最も辛いことが、凝縮されているかのようです。理解されない、拒絶される、捨てられる、あざけられる、あなどられる。肉体的な痛みと精神的な苦しみのすべてがイエスの十字架に注がれました。
 ペトロの手紙一はイエスの十字架を次のように語ります。「『この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」(1ペトロ 2:22~24)
 罪がわたしたちにもたらしたすべての痛み・苦しみをイエスは負ってくださったのです。わたしたちが義によって生きるようになるためです。わたしたちが生きるための主の十字架なのです。主の十字架によってわたしたちは罪から救い出され、支えられて生きるのです。

 「さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで」続きました。これは「まことの光」(ヨハネ 1:9)であるイエス キリストを拒絶し捨てたことのしるしです。
 そして「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれ」ました。「『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味」です。裁かれるべきわたしたちに代わってイエスは神に捨てられてくださいました。この言葉は神に捨てられたと感じる人々、神はもうわたしを顧みてくださらないと感じるすべての人々の思いを担って祈られた祈りです。イエスはすべての人に代わって神に裁かれたのです。

 「そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、『この人はエリヤを呼んでいる』と言う者も」いました。」当時、苦しむ正しき人にはエリヤが天から助けに来る、という信仰があったようです。
 ある人が「すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませよう」としました。けれど「『待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう』」と言う者たちもいました。
 酸いぶどう酒とは酸っぱいぶどう酒のことです。英語の訳を見ますと、ビネガーと訳されているものもあります。ワインから作った酢、ワインビネガーのようなものでしょう。これは苦しみを軽減するものと考える人もいたようです。苦しみが軽減されればエリヤが来ないかもしれないので「待て」と言ったのでしょう。
 「しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られ」ました。(45~50)

 すると、イエスが十字架を全うされたしるしがいくつか起こりました。
 マタイによる福音書は、イエスにおいて旧約が成就したことを伝えようと編纂されています。
 第一に「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」ました。この垂れ幕は至聖所の入口にかかる垂れ幕と言われています。イエスの十字架による完全な贖いによってもはや贖いが必要なくなったことのしるしです。
 第二に「地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」のです。「そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れ」ました。イエスの十字架によって罪が贖われたために、罪がもたらした死が取り除かれたしるしです。
 第三に「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』と」告白をします。彼らはユダヤ人たちがどういう罪状でイエスを訴えたか知っていました。彼らは神の言葉(旧約)について何も知りませんでしたが、自分たちが目の当たりにしたイエスの十字架とそのしるしを見て、恐れを感じてイエスは「本当に神の子だった」と告白しました。「地の果てのすべての人々よ/わたしを仰いで、救いを得よ」(イザヤ 45:22)という御言葉の成就のしるしです。

 「そこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守って」いました。
 イエスが十字架に掛かられたのが紀元30年頃、マタイによる福音書が編纂されたのが紀元80年頃と考えられています。ここには50年ほどの時間がありますが、その間に十字架の目撃者、イエスの証人たちが口伝で伝えていたものが、次第に福音を伝える資料として書き記され、福音書に編纂されていったと考えられています。
 イエスが十字架で死んだという事実が、旧約の成就であるというのは信仰の理解です。ほとんどの人は十字架で信じることはできませんでした。その十字架が教会のしるしとなりました。神のわたしたちを救うという思いが真実であり、イエスが救いを成し遂げてくださったことを聖霊が教えてくださったのです。イエスの十字架が神の救いの御業であることを聖書は証ししています。だからこそ聖書は神の言葉なのです。

 イエス キリストの十字架こそ、あなたのための救いの御業だと、神は語りかけ、わたしたちを救いへと招いていてくださるのです。

ハレルヤ


父なる神さま
 あなたが成し遂げてくださったわたしたちの救い、イエス キリストの十字架を聞くことができて感謝します。御子の命までかけてわたしたちに与えようとしてくださる救いの恵みを心開いて受けることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン