聖書の言葉を聴きながら

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ヨハネによる福音書 4:43〜54

2020年3月1日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 4:43〜54(新共同訳)


 サマリアのシカルの町の人たちに留まるようにと頼まれて、二日間滞在したイエスは、その後ガリラヤへと向かわれました。
 注解書を見ますと、44節の「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」というイエスの言葉で言われている「イエスの故郷」とはどこを指しているのかが問題とされています。それはこの44節の後に「ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した」とあるので、この43, 44節の流れがおかしいということで問題にされるようです。

 ですが、ここで最も考えなければならないのは「故郷」のことではありません。注目すべきは48節の「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」というイエスの言葉です。
 イエスを歓迎したガリラヤの人たちについては「彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたから」と言われています。これについては 2:23で「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」と記されています。

 46節以下では、息子の癒やしを願った役人は、イエスの言葉を信じて、願いが聞かれたことを見ずに帰らなければなりませんでした。そして福音書の最後では、イエスの復活を信じられないトマスに対して「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(20:29)と言われます。
 ヨハネによる福音書には「見ずして信じる者は幸いである」というメッセージがあります。それがきょうの箇所の基本にあります。そしてもう一つが、きょうの箇所の出来事が「二回目のしるし」と福音書が受けとめた出来事であるということです。

 ヨハネによる福音書では「しるし」という言葉が17回出てきます。4つある福音書の中で最も多く出てきます(マタイ6回、マルコ5回、ルカ6回)。ヨハネによる福音書は「しるし」ということにこだわって書いています。特に「最初のしるし」「二回目のしるし」については、福音書は「しるし」を救いの到来・成就を表すものと理解しています。

 イエスガリラヤのカナに行かれました。カナは最初のしるしを行われた場所です。カナで行われていた結婚式で、ぶどう酒がなくなったので、水をぶどう酒に変えられました。このカナにイエスがおられたとき、一人の男が訪ねてきます。この人は、カファルナウムに駐在する王の役人でした。彼の息子が病気になり、彼が心配せずにはおれない病状でした。息子は死にかかっていたと聖書は伝えます。彼は、イエスガリラヤに来られたと聞いて、イエスのもとに行き、カファルナウムに来て息子を癒やしてくださるように頼みました。

 するとイエスは「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われました。何で死にかけている息子のためにわざわざ訪ねてきた彼にこんな言葉をかけるのでしょうか。
 しかし彼は、そんなイエスの言葉に腹を立てるでもがっかりするでもなく、イエスに訴えます。彼にとって死にかけている息子が癒やされることが問題なのです。

 おそらくこのイエスの言葉は、彼も覚えていたかもしれませんが、その場にいた弟子の誰かが覚えていたのでしょう。最初は「イエス様は何でこんなことを言われるのだろうか」ぐらいに思ったかもしれません。わたしは、この言葉は聖霊降臨の後でなければ理解できない言葉だったのではないだろうかと思います。そして、理解できたからこそ、福音書に第二のしるしとして記録されたのだろうと思います。

 彼はイエスに訴えます。「主よ、子供が死なないうちに、おいでください。」しかしイエスは言われます。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」
 彼は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行きました。何故彼がイエスの言葉を信じたのかは分かりません。イエスの言葉に力強さを感じたのか、あるいはイエスのまなざしに真実を感じたのか、聖書は何も語りません。結果、彼は失意の内にではなく、イエスの言われた言葉を信じて帰って行きました。

 彼が帰る途中で、彼の僕たちが迎えにやって来てました。そして彼の息子が生きていることを告げました。おそらく彼はよい主人だったのだと思います。僕たちは、よい知らせを伝え、主人の心配を少しでも早く取り除くためにやって来たのでしょう。

 彼は伝えられた知らせを聞いて、「あなたの息子は生きる」というイエスの言葉を思い出しました。そこで彼は僕たちに息子の病気がよくなった時刻を尋ねました。僕たちは「きのうの午後1時に熱が下がりました」と答えます。それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、彼は知りました。そして家に帰ってから、事の次第を家族に話したのでしょう。彼も彼の家族もこぞってイエスを信じました。
 福音書はこの出来事を、救いの到来・成就を表す第二のしるしとして理解しました。

 福音書は、イエスの言葉は、出来事となる神の言葉であるという信仰に立っています。イエスの言葉は、しるしや不思議を見なくても信じることができる言葉。出来事となる言葉。そして命をもたらす言葉。つまりこの出来事は、イエスは神であるという信仰を表しているのです。
 福音書はそのことに気づいたので、この出来事を「二回目のしるし」と言っているのです。そしてこの出来事を聞いた皆さんが、この役人と同じように「イエスの言われた言葉を信じて帰る」ことを願っているのです。

 「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とイエスは言われます。けれどイエスは、拒絶され、十字架で自らの命を献げるために来てくださいました。敬われないから行かない、という判断はイエスにはありません。
 けれどイエスは、ご自分の言葉が出来事となる真実な言葉であることを知ること、そして、イエスが神と等しいお方であることに気づき信じることを願っておられます。
 そして福音書は「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(1:14 口語訳)と告白します。福音書は、イエスは神の言葉、真に神であり、真に人、イエスこそキリスト、真の救い主であるという信仰を伝えているのです。

 イエスは、わたしたちもこの役人、そして代々の聖徒たちと同じく「イエスの言葉を信じて」希望を持って帰って行く者となることを願っていてくださるのです。「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ 10:17)イエスは、わたしたちがこの罪の世にあっても「信じない者ではなく、信じる者に」(20:27)なることを願っておられるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちがイエス キリストが誰であるかを知り、あなたがどのようにして救いを成してくださったのかを知る「しるし」を与えてくださり、感謝します。どうかわたしたちにキリストの言葉を、あなたの言葉を信じる信仰をお与えください。この罪に世にあって、あなたを信じる者として生きる幸いをお与えください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン