聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

創世記 22:1〜19

2017年12月17日(日)主日礼拝  
聖書箇所:創世記 22:1〜19(口語訳)

 

 アブラハムが神の召しを受けて旅立ったのは75歳のときでした。この時、神はアブラハムに対して「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう」と約束されました。しかし、アブラハムには子どもがありませんでした。何年か過ぎて、再び神がアブラハムに対して「あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」と約束されたとき、アブラハムは「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はわたしの家の奴隷(ダマスコのエリエゼル)であるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか」と問いかけました。その時、神はアブラハムを外に連れ出して「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい。あなたの子孫はあのようになるでしょう」と言われました。それから20年近い歳月が過ぎて、アブラハム100歳、妻のサラが90歳のとき、神は約束の子イサクをお与えになりました。

 神がこの約束を果たされるまでに、アブラハムは諦めて自分の家の奴隷を跡継ぎにと思ったこともありました。86歳の時にはサラのつかえめであるハガルによって子をもうけ、跡継ぎとしようとしたこともありました。アブラハムにとって、この神の約束を信じて生きるということは簡単なことではありませんでした。それだけに、約束の子イサクが与えられた時、アブラハムはどれほど嬉しかったことでしょうか。

 ところがある時、神はアブラハムに命じられます。「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい。」燔祭というのは、焼き尽くす献げ物のことです。
 何という言葉でしょうか。待ち続け、やっと与えられた子ども、愛するひとり子を焼き尽くす献げ物としてささげよとは。

 1節に「神はアブラハムを試みて」とあります。一体何を試そうというのでしょうか。もう十分アブラハムの信仰は分かっているではありませんか。ここまで神の言葉を信じて従ってきたのですから。
 しかし更に驚くことに、「アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた」のです。
 アブラハムは迷わなかったのでしょうか。これは本当に神の言葉かと疑わなかったのでしょうか。悩まなかったのでしょうか。しかし聖書はそのことについては何も記しません。アブラハムが神を信じ従ったことだけを聖書は伝えています。

 旧約を読んでいきますと、自分の子どもを犠牲としてささげるというのはカナンの地の異教の風習で、神はこれを厳しく禁じています。例えばレビ記18:21には「あなたの子どもをモレクにささげてはならない。またあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である」とあります。ですから1節に書かれていたように、明らかに神はアブラハムを試されたのです。
 神が試されるとき、それは「よく分からないから試してどれほどのものか見てやろう」という試みではありません。神はアブラハムの信仰は知っておられます。神の試しは、信仰を前進させるための試みなのです。けれど、神はこれ以上アブラハムの信仰をどう前進させようというのでしょうか。神の命令通りにすれば、アブラハムは子孫を失い、未来をなくしてしまいます。しかし、神はこれまで以上に未来はアブラハムの期待や予想の中にあるのではなく、神の御手の中にあることを信じることを求めておられます。信仰は、神の約束に対して「信じます。アーメン」と応えることです。しかし、それは決して小さな事柄ではなく、人生のかかった大事な応答なのです。
 わたしたちにとって試みの時とは、神の求めよりも容易で、より要求の少ないものが非常に魅力的に見える時なのです。イザヤ 55:8には「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると/主は言われる」とあります。自分の思いとは異なるけれども、神が示される道を選び取るのが信仰です。
 試みは、神の御心と自分の考えとの間にある深刻な葛藤を明らかにします。試みは、我々自身の信仰が、本当に神にのみ依り頼む信仰があるのかどうかを問いかけます。旧約の詩人は語ります。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる。」(詩編 37:5, 6)神はご自分に全き信頼を置くことをアブラハムに求められたのです。

 約束の場所が見えてきたとき、アブラハムは息子イサクと二人で神の前に進み出ていきました。アブラハムは燔祭に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を持ちました。二人は一緒に歩きました。イサクはアブラハムに「父よ」と呼びかけると、アブラハムは「子よ、わたしはここにいます」と答えました。イサクは尋ねました。「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか。」アブラハムは答えます。「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう。」二人は一緒に歩いて行きました。

 アブラハムは「神が備えてくださる」とイサクに答えたとき、未来が見出し得ないような状況の中にあっても、神の約束の中に生きる道が開かれてくる、それは自分が生きる道というだけでなく、イサクにとっても生きる道が開かれてくることを信じていたのです。行く手に死しか見えない中で、なお神が命の神であることを信じていたのです。

 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せました。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとしました。そのとき、主の使いが天から「アブラハムよ、アブラハムよ」と呼びかけました。彼が「はい、ここにおります」と答えると、御使いは言いました。「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った。」

 アブラハムは神の試みを克服しました。自分を召し導いてこられた神の約束の中に未来があり、生きる道があるその恵みの中にアブラハムは立っていました。アブラハムは目を挙げて見ると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていました。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげました。アブラハムが信じたように、神ご自身が二人が生きるための献げ物を備えていてくださいました。そこでアブラハムはその場所をアドナイ・エレ(主は備えてくださる)と名付けました。そして、神の民の間では今日でも「主の山に、備えあり」と言われるようになったのです。「主の山に備えあり」とは、神こそが我々の未来を開かれるという信仰の告白なのです。

 神はアブラハムに対し、未来の希望であるイサクをささげ委ねるように求められました。アブラハムに愛するひとり子をささげよと命じられた神は、実はご自分が愛するひとり子をささげる決意でおられました。アブラハムが信じた果てに見出した一匹の雄羊、まさにそれこそが神に従う二人、そしてわたしたちが生きるために神ご自身が備え与えてくださったイエス キリストを指し示すものです。
 イエス キリストもまた、神の言葉に従い、十字架の上で自らの命をささげきるまで従われました。神に従い、未来を神の御手に委ねたその果てに、神は復活の命を与え、命の道を開かれました。神は、わたしたちの生きる道、そしてわたしたちの命そのものを備えていてくださいます。神ご自身こそ、わたしたちの救いのために愛するひとり子を惜しまれない方であり、わたしたちを永遠の命へと導かれる方なのです。

 クリスマスは、神がご自身のひとり子をささげて、わたしたたちが永遠の命に至る未来を開かれた恵みを祝う時です。

ハレルヤ