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ローマの信徒への手紙 4:17b〜22

2019年11月6日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 4:17b〜22(新共同訳)


 パウロは「信仰による神の義」について語り続けます。それは、同胞であるユダヤキリスト者たちが割礼や律法を誇りとするのではなく、イエス キリストの救いに与るためであり、救いを求めている人たちが間違った信仰に入るのを防ぐためです。
 パウロは「信仰による神の義」について、アブラハムを示しつつ語ります。
 今回は、17節にある「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」という神の御業が、「信仰による神の義」に与えられた恵みであることを示そうとしています。

 創世記15章で、神が「あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」(創世記 15:1)と言われたとき、アブラハムは「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません」と神に訴えます。その時、神はアブラハムを外へと連れ出し「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」「あなたの子孫はこのようになる」(創世記 15:5)と言われました。そこでアブラハムは主を信じました。その時、主はそれを彼の義と認められたのです(創世記 15:6)。
 アブラハムは疑いもなく、ただ素直に信じたのではありません。「現実は違うじゃないですか」と神に訴えました。疑いも不満も神にぶつけました。その自分の思いを受けとめてなおお語り、約束が揺るがないことをお示しになる神を信じたのです。そして割礼の直前、創世記17:5では「あなたを多くの国民の父とする」と神は言われました。

 前にも申し上げましたが、神がアブラハムに約束されたのは「人」なのです。13節で「世界を受け継がせることを約束された」と言われていますが、ここで言う世界は領土としての世界ではなく、人のことです。

 パウロは、「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ」たと言います。天地創造の神、イサクを焼き尽くす供え物から贖い出される神、そしてキリストを死者の中から復活させられる神、つまり命の神をアブラハムは信じたのだとパウロは言います。
 アブラハムは「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました」と言うのです。ヘブライ人への手紙では「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」(11:1)と言われていますが、アブラハムは自分の子孫となる多くの国民を見てはいません。見たことがありません。まさに見ずして信じたのです。アブラハムは神を信じたのです。神の真実を信じたのです。

 アブラハムは「およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。」神はその約束されたことを、また成就することができるとアブラハムは信じたのです。
 アブラハムは神を信じました。自分の信仰を信じたのではなく、自分の信仰の確かさを確認したのではなく、ただ自分に語りかけ、自分と共に歩んでくださっている神の真実を信じました。
 パウロは「だから、彼は義と認められた」と言います。

 創世記を読んでいきますと、アブラハムは妻の美しさゆえに不安になり、妻を妹だと言ったために、妻はエジプトの高官に召し入れられました。神を信じているから、不安にならないとか、恐れないということはありません。けれど、神が語りかけられたとき、神の声を聞いたとき、アブラハムは神を信じたのです。神はそれ故にアブラハムを義と認められました。
 義というのは、関係の正しさを表します。神が語りかけられたとき、神の言葉を信じるのが正しいと示されたのです。

 ヨハネによる福音書1章で言われているとおり、イエス キリストは神の言葉です。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ 1:14)「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させ」(コロサイ 1:19, 20)てくださいました。
 神は、御子イエス キリストにおいて救いの御業を成し遂げてくださり、わたしたちを救いへと招いていてくださいます。わたしたちが、このただ一人の救い主イエス キリストを信じるとき、わたしたちは神が救いの約束を成就してくださり、神がわたしたちの救いとなってくださったことを信じるのです。そのとき、神とわたしたちとの間に「信じる」という義なる関係が生まれ、わたしたちは神の国に入れられます。神は、アブラハムとの約束をイエス キリストにおいて成就してくださり、イエスを信じるわたしたちにも義、神との正しい関係を与えてくださり、神の国を継がせてくださるのです。

 わたしたちの善き業について申し上げますと、これは神への感謝の応答であって、自分で救いを獲得するためのものではありません。そして、律法の代わりに自分の信仰で救われるのではありません。わたしたちの信仰は弱くもろく迷いやすく、不十分です。わたしたちに代わってイエス キリストが、死に至るまで神を信じ抜いてくださいました。ですからわたしたちは、主イエスの恵みによって救われると聖書は語るのです。
 わたしたちは、神がわたしたちの救いの神であり、イエス キリストがわたしたちの救い主であることを信じることにより、義とされるのです。わたしたちの信仰が確かだから、立派だから救われるのではありません。神が真実であってくださるので、わたしたちは神によって救われるのです。
 自分の信仰が、弱い小さい不十分だと、自分で自分を測ることには意味がありません。自分で自分の信仰を見て、わたしの信仰は立派だなどと言ってもそれによって救われるわけではないのです。わたしたちが目を向けるべきは、自分自身の中ではなく、自分の信仰の確かさを求めるのでもなく、イエス キリスト、このわたしのために、わたしが裏切る者であり、逃げる者であることを知っていながら、このわたしのために、十字架を負い、命を献げてくださったあのイエス キリストによってわたしは救われる、聖書はそこへとわたしたちの思いを導いているのです。そして、このイエス キリストの前で、救いに与る資格がないと悲しまねばならない人は一人もいないのです。
 「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。」(テトス 2:11)「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのです」(使徒 15:11)。

 アブラハムが、望み得ないところでなお望んだように、わたしたちがこの世を見るなら、罪人の頑なさを見るなら、この世が救われるとは思えないかもしれません。
 けれども、その望み得ないことを、神は成し遂げられるのです。そのためにひとり子の命さえお与えくださいました。わたしたちは、神が語り約束してくださったことに思いを向けるのです。そしてそれがイエス キリストにおいて成就したことを見るのです。アブラハムとの約束は空しくなることなく、時を経て、実現しました。それを、わたしたちは知っています。
 ですから今、わたしたちが見る世界が、自分が、隣人たちが、どれほど望み得ない状態にあっても、神は救いをなされる、神はイエス キリスト、ご自分のひとり子をすべての人々に救いをもたらす恵みとしてお与えくださったと、「神を」信じるのです。
 その時わたしたちは、神にあって、望み得ないところ、たとえ死であっても、復活されたイエス キリストを仰ぎ見るとき、希望を与えられるのです。どのような時にあっても、どのような状況にあっても、なお神にある望みを与えられるのです。
 その神の望みに与り、それを喜び、そして神を讃え感謝するようにと、パウロは語り、信仰による神の義をわたしたちに伝えているのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 希望を持つことの難しい罪の世にあって、罪の闇の中で光り輝くイエス キリストの希望を与えられ、感謝します。その希望に到る信仰に導かれたことを感謝します。どうかあなたが与えてくださる計り知ることの出来ない恵みに気づかせてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン