聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

創世記 15:1〜21

2017年12月10日(日)主日礼拝
聖書箇所:創世記 15:1〜21(口語訳)

 

 神の召しに応え、神の約束の言葉を頼りとしてアブラムは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、旅立ちました。齢すでに75歳でした。神の約束の言葉には、あなたを祝福の基とするという大きな恵みがありました。
 それからどれほどの時が経ったかは判りませんが、再び神の言葉がアブラムに臨みました。神は言われます、「アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」。神が盾となって守ってくださる。なんと心強いことでしょうか。全能の神が盾となって共にいてくださるのであれば、もはや何も恐れることはありません。それに、神は以前の約束を忘れてはおらず、「あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」と再び約束してくださいました。

 しかし、アブラムはそのような神の言葉を聞いても素直に喜ぶことができません。アブラムは神に向かってつぶやきます。「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか。あなたはわたしに子を賜らないので、わたしの家に生まれたしもべが、跡継ぎとなるでしょう。」アブラムは神の約束を信じて旅立ちました。神は「わたしはあなたを大いなる国民とする」と言われました。しかし、依然としてアブラムには子がなく、彼の人生の終わりの日は近付いて来ています。彼は未来に希望を見ることができないのです。子供がいないということは、単に跡継ぎがいないということに留まらず、神の約束に疑いを持たずにはいられないということまで引き起こします。

 この時彼の心には後悔もあったことでしょう。もし、彼が親族のいる土地に留まっていたならば、彼は血の繋がりのある者を跡継ぎに迎えることができたことでしょう。けれど、今彼は自分の家で生まれた奴隷を跡継ぎにしなければならないのです。
 神の言葉を信頼し、その召しに応えて歩んできたのに彼は今、約束の祝福を手にするどころか未来に対して諦めを抱いているのです。

 しかし、神はアブラムのつぶやきに対してこうお答えになりました。「この者はあなたの跡継ぎとなるべきではありません。あなたの身から出る者が跡継ぎとなるべきです。天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい。あなたの子孫はあのようになるでしょう。」神の答えにためらいはありません。神の約束は変わらないのです。
 アブラムは主を信じました。自分の目に見えるこの世の現実はどう考えても未来に希望の持てるものではありません。100人が100人、このアブラムの置かれている状況にあったなら希望を持つことができないでしょう。しかし、この絶望的な状況を前にして全く変わらない神の御言葉により、彼は肉なるものに目を向けるのを止めました。アブラムは今、揺らぐことのない神の約束によって神御自身に目を向けたのです。そして、彼は神を信じたのです。無から全ての被造物を造られた神を、今目の前にある数え尽くすこともできない星々を造られた神を彼は信じたのです。希望を持つことができず、疲れ果てている今を、希望と喜びに満ちた未来へと、神はその御手をもって造り変える創造の御業をなしてくださる、と彼は信じたのです。

 アブラムは特別な人間ではありません。世にある信仰者は皆彼と同じ失望を経験します。どうしても聖書で言われているような祝福を受けているとは思われず、自分の置かれている状況や自分自身の持っている力を顧みるとき、諦め・失望を感じます。これはこの罪の世で生きる限りわたしたちが必ず経験する事柄です。イエス キリストも弟子たちに対して何度も「信仰の薄い者たちよ」と言われ、「なぜ信仰がないのか」と問われました。救い主が一緒にいてもわたしたちはこの弱さを消し去ることはできないのです。
 けれども、そのような弱さに囚われてしまう必要はありません。神はそのようなわたしたちの弱さをわたしたち以上によく知っていてくださり、わたしたちをその弱さから救い出すために繰り返し語ってくださるのです。そして、その神の言葉によってアブラムは諦めの中から創り主である主を信じたのです。無から全てを造りだし、自分のこの望みを持ち得ない状況をも喜びに満ちた未来へと創り変える創造主として信じたのです。そして、主はこれをアブラムの義と認めてくださいました。

 わたしたちの望みは神から来ます。わたしたちが望み得ないとき、神がそこに望みを与えてくださいます。その神が与えてくださる希望を受け入れ、神を信じる者を神は義と認めてくださるのです。わたしたちの内に義なるものがあるのではありません。わたしたちに対する神の限りない愛を信じ、神に依り頼んで生きる者を神はその御手に抱き止めてくださるのです。
 神はなおもしるしを求めるアブラムに対して、神の真実を指し示すしるしを与えてくださいました。
 神の言葉を信じて待つアブラムのために暗闇の中、アブラムが深い眠りに襲われたとき、主はアブラムと契約を結ばれました。この契約の儀式が表すのは、約束が命をかけたものであることを表しています。それは遙かな時を経て、イエス キリストの十字架において、神がアブラムとの契約を成就されたことを知るのです。神は御子を与え約束を成就されました。文字どおりイエス キリストは、自らの肉を裂き、血を流して、命を掛けてわたしたちを死から救い出し、永遠の命へと導いてくださいました。
 神はお語りになります。「あなたはよく心にとめておきなさい。あなたの子孫は他の国に旅びととなって、その人々に仕え、その人々は彼らを四百年の間、悩ますでしょう。しかし、わたしは彼らが仕えたその国民をさばきます。その後かれらは多くの財産を携えて出て来るでしょう。」これは出エジプトを指しています。アブラム自身が経験することのない事柄です。なぜそれを心に留めておかなくてはならないのでしょうか。それは神が時を貫いてご自身の真実を果たされるお方であることを知るためです。
 ですから、神はわたしたちに待つことをお求めになります。聖書はそれを繰り返し語ります。「主を待ち望め 雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。」(詩篇 27:14)「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。」(ハバクク 2:3)
 信仰にとって大切なことの一つは、待つこと、神を信じて待つことなのです。待つことを通して、神は信じて生きる信仰を育まれます。神はわたしたちに待つことを求め、それに真実をもって応えるお方なのです。

ハレルヤ