聖書の言葉を聴きながら

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創世記 28:1〜22

2017年12月20日(水)祈り会
聖書箇所:創世記 28:1~22(新共同訳)

 

 アブラハムの孫、ヤコブの話です。
 神の祝福がどうしてもほしかったヤコブは、神の祝福を軽じていた兄エサウの隙をついて、神の祝福を奪ってしまいました。自分で神の祝福を軽んじ、レンズ豆の煮物と長子の権利を交換し譲ってしまっていたのに(25:27~34)、エサウは、父イサクが死んだら弟ヤコブを殺してしまおうと考えていました(27:41)。エサウの思いを知った母リベカは、父や兄のいるパダン・アラムにヤコブを逃がし、同じ信仰、習慣を共にできる妻をめとらせようとしました。

 ヤコブは、ベエルシバを立って、ハランへ向かいます(28:10)。アブラハムとは違う仕方でしたが、ヤコブも住み慣れた所を離れて旅立ちます。逃げて行く途中、ヤコブは石を枕にして野宿をしました。ただ、この夜の野宿は特別でした。
 その夜、神は夢の中でヤコブに語りかけられました。天に達する階段を御使いたちが上り下りしていた。この夢は、天にいます神がわたしたちの手の届かない遥か高いところに留まっておられる方ではなく、地上に下って、人間と交わりを持ち、人間を導く方であることを示しています。神は言われます。「見よ、わたしはあなたと共にいる」「わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」(28:15)

 イエス キリストは、それをご自分を示すものだと言われました。「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう。」(ヨハネ 1:51)
 ヤコブは、眠りから覚めて「これは天の門だ」と言いましたが、イエス キリストはご自分が天の門であると言われました。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。」(ヨハネ 10:9)ヤコブに示された約束は、イエス キリストによって成就したのです。

 人間は、自分の力で神を知ることはできなません。神を知ることは、ただ神ご自身が働きかけてくださるときにできることです。
 ヤコブは眠りから覚めて、「まことに主がこのところにおられるのに、わたしは知らなかった。」と告白しました。ヤコブはこの出来事によって、生ける真の神に出会って、恐れてました。祖父アブラハムを召し出し、導かれた神、父イサクの生涯を守り導かれた神と出会い、神を知ったのです。神を知って、ここからヤコブの新たなる歩み、新しい信仰生活が始まりました。

 ヤコブは今、兄の怒りを逃れて父母を離れ、故郷を離れて歩みます。神が与えてくださったのは、神との確かな絆。神がいつも共にいてくださるということ。これが本当に大事だと知るために、彼のこの旅がありました。ヤコブは翌朝、神に誓いを立てます。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」(28:20~22)
 ヤコブは「神がわたしと共におられ・・主がわたしの神となられるなら・・」と願います。それが自分にとってなくてならないことだとヤコブは気づいたのです。
 そしてヤコブは、そこをベテルと名付けました。ベテルとは、神の家という意味です。

 神は、神と共にあることを最も大事なこととして、イエス キリストにおいて成就されました。イエスの誕生に先立って天使は告げます。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」(マタイ 1:23)

 わたしたちを罪から救い出し、神と共に生きる者としようという神の御心は、千年の時を遙かに超えてもいささかも揺るがず、成就されました。その神の真実は、さらに二千年の時を経ても変わらないのです。
 クリスマスは、本当に信じることのできる神の真実を知るとき、神はその真実を御子イエス キリストによって証しされたことを確信し明らかにするときなのです。

ハレルヤ