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創世記 28:10〜22

2020年12月16日(水) 祈り会  待降節第4主日
聖書:創世記 28:10〜22(新共同訳)


 きょうは、アブラハムの孫、ヤコブの話です。

 待降節は、クリスマス(12/25)前4回の日曜日です。本来ですと、今度の日曜日(12/20)は待降節第4主日です。ですが日本では、12/25(クリスマス)は祝日ではないので、12/25日の直前の日曜日、つまり待降節第4主日降誕節主日として守る教会が多いと思います。わたしたちの教会も12/20に降誕節礼拝を守ります。そこで降誕節を祝う日曜日の直前の祈り会で、待降節第4主日に聞く予定だった話をしたいと思います。

 本来、神の祝福はアブラハムからイサクへ、そしてイサクの長男エサウに受け継がれていくはずでした。しかし、神の祝福がどうしてもほしかったエサウの双子の弟ヤコブは、あるとき空腹で狩りから帰ってきたエサウが、ヤコブの作っていた煮物をほしがったので、エサウの長子の権利と交換することを誓わせました(25:27~34)。長子の権利というのは、はっきりと書かれてはいないのですが、神の民として歩むことのように思います。
 二人の母リベカは、エサウよりもヤコブを愛していました(25:28)。エサウのヘト人の妻 ユディトとバセマトと合わなかったこともあり(イサクとリベカの信仰・習慣と、ヘト人の嫁たちの信仰・習慣が合わなかったのでしょうか)、リベカはヤコブがイサクの祝福を受け継ぐように策を講じます(27:5~17)。
 こうしてヤコブは長子の権利を軽じていた兄エサウの隙をついて、神の祝福をだまし取ってしまいました(27:18~29)。長子の権利のみならず神の祝福までヤコブに取られてしまったエサウは、父イサクが死んだら弟ヤコブを殺してしまおうと考えました(27:41)。
 しかし母リベカは、自分の兄のいるハランにヤコブを逃がし、同じ信仰・習慣を共にできる妻をめとらせようとしました(27:42~28:5)。

 ヤコブは、ベエル・シェバを立って、ハランへと向かいます(28:10)。アブラハムとは違う仕方ですが、ヤコブもまた住み慣れた所を離れて旅立ちます。
 途中、ヤコブは一晩、石を枕にして野宿をしました。ハランに行くには何日もかかったはずですから、野宿はこの1回ではなかったはずです。ただ、この夜の野宿は特別でした。
 その夜、神は夢の中でヤコブに語りかけられました。
 天に達する階段を御使いたちが上り下りしていました。この階段は、天から地へと向かって延びている階段でした。つまり神が地へと降ってきてくださる階段です。15節で神は「わたしはあなたと共にいる」と言われましたが、神がヤコブと繋がっていてくださることを示す階段でした。

 神は言われます。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」(28:13~15)
 アブラハムに与えられたのと同じ約束がヤコブにも与えられます。「地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。」(参照 12:3)
 そして、イエス キリストによって出来事なった言葉が与えられます。「見よ、わたしはあなたと共にいる。」
 天使がヨセフにイエスの誕生を告げた出来事を、マタイによる福音書はこう記しています。「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」(マタイ 1:22~23)

 このヤコブの経験した出来事には、他にもイエス キリストを指し示すことがあります。イエス キリストは、ヤコブの見たこの夢をご自分を示すものだと言われました。「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう。」(ヨハネ 1:51)
 ヤコブは、眠りから覚めて「これは天の門だ」と告白しましたが、イエス・キリストはご自分が救いに至る門であると言われました。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。」(ヨハネ 10:9)
 ヤコブはイエス キリストよりも千数百年昔の人物です。もちろんイエス キリストを知りません。しかし、ヤコブに示されたことは、イエス キリストによって成就し、出来事となったのです。

 これまで、ヤコブに主体的な信仰はありませんでした。父や母が信じている信仰を慣習的に受け入れていたのだと思います。ここまでのところで、ヤコブが神と共に歩む、神に従うという信仰は記されていません。この夢は、ヤコブにとっての重要な神体験でした。
 人間は、自分の力で神を知ることはできません。神を知ることは、ただ神が働きかけてくださるとき、啓示されるときに起こります。
 ヤコブは眠りから覚めて、「まことに主がこのところにおられるのに、わたしは知らなかった」と告白しました。ヤコブは、自分を超える大きな神の働きのただ中に置かれていることを知って、恐れます。神と共に歩むヤコブの新しい歩みが始まりました。この出来事一つでヤコブが全く新しくなったわけではありません。この後にも、神の忍耐深い導きがあり、彼は少しずつ変えられていきます。しかし、確かに新しい歩みが始まりました。それは神の働きかけによるものです。

 イサクの祝福はヤコブにも与えられました。祝福を与えられたというと、何かバラ色の人生が始まるかのように思われるかもしれません。しかし、ヤコブのこれ後の歩みはバラ色ではありません。彼は、父母から離れてパダン・アラムに逃げて行きました。彼に与えられた祝福とは神との絆。いつも神と共にいるということです。そんなものはありがたくないと思う人もいるかもしれません。今の自分の苦しみを解消してくれと言う人もいることでしょう。しかし聖書は、神との絆こそが本当の祝福であると伝えています。

 ベテル、それは神の家という意味です。ベテルはヤコブの見た夢の話と共に、神が共におられることを示します。「見よ、わたしはあなたと共にいる。」それは後に、幕屋が示し、神殿が指し示すものです。そして今日では、教会が示すことでもあります。
 さらに聖書はこう語ります。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(1コリント 3:16)「御父が・・その霊により・・信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ・・愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ 3:16~17)「キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ 2:20)
 神は聖霊においてわたしたちと共にあり、共に生きてくださっているのです。

 キリストの降誕を待ち望む待降節の今、神の言葉は出来事となる真実な言葉であることを思います。神はわたしたちと共にいてくださるお方であることを思います。わたしたちが祝福され、神はわたちたちを通してすべての人を祝福してくださることを思います。神ご自身がわたしたちの喜びとなり、希望となってくださいました。
 「天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(ルカ 2:10~11)


ハレルヤ


父なる神さま
 罪を抱えたわたしたちが、あなたの真実を知ることができるように、あなたはすべてを用意し整えて御業をなしてきてくださいました。あなたの救いの御業を聞いて、あなたを信じることができますように。代々の聖徒たちと共に、あなたの言葉が実現したイエス キリストの誕生を喜び祝うことができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン