ヨハネによる福音書 6:22〜27
2020年10月11日(日) 主日礼拝
聖書:ヨハネによる福音書 6:22〜27(新共同訳)
イエスはガリラヤ湖の近くで、集まってきた大勢の人たちに対して、五つのパンと二匹の魚で人々を満たすという「しるし」を示されました。
ヨハネによる福音書は、この場所がどこなのか記していません。おそらく知らないのでしょう。この五千人の給食と言われる出来事は、4つの福音書すべてに書かれていますが、ルカによる福音書だけがベトサイダという地名を記しています。ヨハネによる福音書は、4つの福音書の中で最後に編纂された福音書だと考えられていますが、ヨハネはルカによる福音書を知らなかったのだろうと思います。
ヨハネはこの場所の地名を知らなかったので、22〜24節は少々くどい説明になっています。
五千人の給食の場に集まった人々は、夜の間に弟子たちとイエスがそこを離れてカファルナウムに行ったのを知りませんでした。翌日になり、人々はイエスと弟子たちがいないことに気づきます。
この場所にイエスと弟子たちは二艘の舟で来られたのでしょう。小舟が一艘しか残っていなかったので、弟子たちが舟で出かけたのだと気づきました。
そこにティベリアスからの舟が来たので、それに乗ってイエスを探してカファルナウムに向かいました。
23節では、ティベリアスから舟が近づいてきたことを書くのに「主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ」と少しくどい書き方をしています。
前にもヨハネによる福音書は、最後の晩餐の場面で配餐と食事が描かれておらず、弟子たちの足を洗われたことを書いているので、五千人の給食で祝福と配餐・食事を描いている、と理解する人もいるということを申し上げました。この少々くどい書き方を見ると、やはりヨハネには五千人の給食に最後の晩餐の恵みを重ね合わせている意識があるのだろうと思います。
新共同訳は1〜15節の小見出しを「五千人に食べ物を与える」としています。他の訳で見出しを付けているものは「パンを増やす」としています。しかしヨハネは単なる奇蹟ではなく、イエスが救い主であるしるしであると理解し、それを伝えようとして「主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所」と表現を選んでいるように思えます。
イエスを見つけた人々はイエスに尋ねます。「ラビ(ユダヤ教の教師に対する敬称)、いつ、ここにおいでになったのですか」と尋ねます。しかしイエスはそれに答えません。人々が今、気づかねばならないことはそれではないからです。
イエスは言われます。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」
「はっきり言っておく」の「はっきり」は「アーメン」という言葉です。わたしたちが祈りの最後に言う言葉です。ヘブライ語で「真実」という意味があります。イエスが「アーメン」と言って語りかけられるときは、救いの御業の奥義とも言えることを語られるときです。
アーメンと一語だけの場合と、アーメンアーメンと二語重ねて言われる場合があります。新共同訳ではアーメンと一語のときもアーメンアーメンと二語のときも「はっきり言っておく」と訳しています。しかし新しい聖書協会共同訳はアーメンを「よく」と訳します。アーメンと一語のときは「よく言っておく」、アーメンアーメンと二語のときは「よくよく言っておく」とアーメンが一語か二語か分かるようにしています。
イエスは「しるしを見たからではなく」と言って、自ら五千人の給食がしるしであることを明らかにしておられます。しるしは、イエスが救い主であることを指し示します。さらに言えば、福音書はイエスがモーセのような預言者であることも告げています。モーセがそうであったように、イエスは民を約束の地へと導くのです。しかしそれは、地上の国ではなく、神の国へと導くのです。けれど人々はそのしるしに気づかず、パンを食べて満腹することに心が向いています。
そこでイエスは言われます。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」
「朽ちる」という言葉が使われていますが、朽ちるだと腐ってしまうというイメージを与えてしまうかもしれません。ここは食べたらなくなってしまう食べ物ということを言っています。食べたらなくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい、とイエスは言われたのです。
そして、永遠の命に至る食べ物こそ、人の子があなたがたに与える食べ物である、と言われます。
35節からこの永遠の命に至る食べ物について、イエスは語ります。「わたしが命のパンである。」51節「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」58節「このパンを食べる者は永遠に生きる。」イエス キリストご自身が、永遠の命にいたる食べ物なのです。
そして、永遠の命に至る食べ物、命のパンであるイエス キリストを頂き、イエス キリストによって命が育まれるしるしが聖晩餐です。
わたしたちの教会では、信仰告白をして、この聖晩餐に与ります。
信仰は、注がれる恵みを受け取る手です。手で救われるのではなく、与えられる恵みによって救われるのですが、神は、救いを与えようとする神に応答して信じて受けることを求めておられます。永遠の命に至る食べ物のために働くとは、信じて聖晩餐に与り、キリストご自身に与れるように、キリストを求め、神を求めていくことを指しています。
聖晩餐の理解は、教派によって違います。ローマ カトリック教会とも違いますし、ルター派教会(ルーテル教会)とも違います。わたしたちの教会は、宗教改革者カルヴァン以来の改革派教会の伝統に立つ教会ですので、信仰をもって聖晩餐に与るとき、十字架で命を献げられたイエス キリストの恵みが〈 聖霊 〉によって与えられ、イエス キリストご自身の命に与ると理解しています。
ただ与れば、御利益があるのではなく、イエス キリストがわたしの救い主であるという信仰をもって与ることが大切です。
では本当にイエス キリストは救い主なのでしょうか。
それに対して、イエス キリストこそが永遠の命に至る食べ物であることの保証として、「父である神が、人の子を認証された」とイエスは言われたのです。
「人の子」は、イエスが自分を指して言われる言葉です。
「認証する」という言葉は「印章を押す、はんこを押す」という意味です。王の命令には、王の指にはめられた印章の押印があって有効なものと認められていました。
ですから「父である神が、人の子を認証された」というのは、父なる神がイエス キリストを救い主として認めたしるしがある、ということです。
では、父なる神が押された印章とは何なのでしょうか。福音書の編集者ヨハネは、イエス キリストの生涯、その言葉と業、そして十字架と復活が、イエスが父が遣わされた救い主であることのしるしだと理解したのだと思います。
このヨハネによる福音書は「しるし」を大事に考え、他の福音書よりも多く「しるし」という言葉が出てきます。ですがそれだけではなく、イエス キリストご自身、救い主としての生涯、その言葉と業、特に十字架と復活が、天の父がイエスを救い主として遣わされた証しであると理解しているのだと思います。だからヨハネ 20:31にはこう書かれています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」
ヨハネは、この福音書を通して皆さんがイエス キリストに出会うことを願っています。イエスが救い主であるしるしに気づくことを願っています。共にイエス キリストの救いに与り、喜びを共にしたいと願っているのです。
ハレルヤ
父なる神さま
あなたがご自身の言葉とされた聖書を通してイエス キリストと出会うことができますように。イエス キリストのしるしに気づき、救いに与ることができますように。あなたがキリストを通して与えてくださる永遠の命を喜ぶことができますように。信仰から信仰へ、恵みから恵みへ、キリスト共に永遠の命の道を歩ませてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン