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ローマの信徒への手紙 3:27〜31

2019年10月2日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 3:27〜31(新共同訳)


 パウロは、人はキリストによってのみ救われることを明らかにしようとしています。ですから、ユダヤ人も異邦人も、神の御前で自分を誇ることはできないし、裁かれる存在であることを明らかにしてきました。
 パウロは語ります。「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。」

 わたしたちには神の御前で誇れるものは何もありません。それは何によって分かるのでしょうか。律法(神の戒め)をどれだけきちんと守れたかを判断する行いの法則ではありません。
 旧約の規定の中には、様々な献げ物の規定があります。焼き尽くす献げ物(燔祭)、和解の献げ物(酬恩祭)、穀物の献げ物(素祭)などたくさんの献げ物が定められています。これらの献げ物は、神の前に出るには、生活のあらゆる場面で罪を贖わなければならないことを示しています。そして神がアブラハムに対して抱かれた思いは「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた」(創世記 15:6)であります。旧約の中にあるのも、実は行いの法則ではなく、信仰の法則なのです。

 ここに出てきた「義」というのは正しいという意味です。どういう正しさかというと、関係における正しさです。つまり神とわたしたちとの間の関係における正しさです。
 わたしたちは聖書によって、神を父なる神と呼びます。そしてわたしたちはキリストによって、神の子とされています。ですから神とわたしたちとの関係は、父と子の関係として語られます。神とわたしたちとの関係における正しさ(義)は、父と子の関係になぞらえて語られます。父が子に心を配り、愛を注ぐ、子は父の愛を受けて父を信頼する愛する。こういう関係が神と人との間では正しい、義なる関係だと聖書は告げています。神とわたしたちとの関係は、愛され導かれ、信じ愛することのできる関係なのです。

 そして、この神との正しい関係に入るには、神が与えてくださった戒めをすべて落ち度なく守って入るのではありません。わたしたちが神と共に生きていけるように、神がひとり子を遣わしてまで救いの御業を成し遂げてくださったことを信じる、イエス キリストがこのわたしの救い主である、と信じることを通して正しい関係に入れられるのです。これが信仰を通して与えられる神の義なのです。

 もう少し言いますと、行いの法則とは、サンタクロースの法則です。「この一年いい子にしてた?いい子にはプレゼントをあげよう。」いい子でいたという行いによって、プレゼントがもらえるというのが行いの法則です。しかし、わたしたちは日々罪を積み重ねています。けれどもそのわたしたちを、神は愛してくださり、わたしたちにはできない罪の贖いを、イエス キリストによって成し遂げてくださいました。わたしたちは既に赦されているのです。だからイエス キリストを信じて「主よ、感謝します」と言って、神の御前に立つことができるのです。信じることを通して、神との愛と信頼に満ちた関係に入れられる、これが信仰の法則です。
 パウロは言います。「わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。」

 パウロがこう確信するのには、彼の回心の出来事が大きく関わっています。使徒言行録 9:1~5「(回心前パウロはサウロと呼ばれていました)さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」
 これがパウロの回心の出来事です。キリスト教の迫害者から福音の宣教者へと変わる決定的な出来事です。

 パウロは真面目な信仰者、ユダヤ教徒でした。パウロはフィリピの信徒への手紙 3:4~6でこう書いています。「とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」
 これには続きがあります。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」(フィリピ 3:7~9)

 パウロは、自分が間違っていることに気づきました。キリストに出会ったことにより気づきました。イエスこそ救い主キリストでした。自分の理解も熱心も、行いも間違っていました。自分は「律法の義については非のうちどころのない者」、しかし神は「キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義」を受けるようにとの御心でした。神は救い主として、御子イエス キリストをお遣わしになり、イエス キリストによって救いを成就されたのです。キリストは「わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえ」(1ヨハネ 2:2)だったのだと知ったのです。

 だからパウロは言います。「神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。」「実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。」
 パウロが属していたファリサイ派の信仰熱心は、「律法の義については非のうちどころのない」と言うほどのものです。神の戒めをきちんと守って、神に喜ばれる者であろうと願って生きていました。その彼がキリストに出会ったときに、行いの法則によって自分の義を立てようとしていた自分の信仰が間違っていたことに気づいたのです。神はわたしたちの欠けも弱さも愚かさも知って、なお愛してくださり、その救いのためにキリストを遣わしてくださる。わたしたちは神の愛によって救われるのだ。自分の熱心によって救われるのではなく、神の愛により、イエス キリストにより救われる。そして誰もが自分の信仰を誇ることから解放され、共に主を誇りとするという恵みを与えてくださった。パウロは、そのことにキリストと出会って、目を開かれたのです。

 そして最後に確認するようにパウロは言います。「それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」
 信仰によって律法を確立するとは、どういうことでしょうか。律法によって自分を誇ろうとしたり、裁かれるのではないかと不安に陥ったりしているうちは、神を喜ぶことができません。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」のです。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」(ヨハネ 3:16)なのだと、信仰によって神の愛を確信するときに、わたしたちは救われた感謝をもって律法を守っていくことができるのです。神を喜び、神に従うことができるのです。「わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶ」(ローマ 5:11 口語訳)のです。神を喜びつつ生きることによって、律法を確立するのです。

 神が与えてくださる救いの恵みを、イエス キリストを通して知るとき、戒めも神と共に生きるための恵みであることを知るのです。喜びと感謝をもって、戒めを受け取ることができるのです。神と共に生きる大いなる恵みに招かれている。すべての神の言葉が、わたしたちを神へと導いてくださることを、イエス キリストによって知り、神を喜ぶのです。
 今わたしたちもまた「キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだす」のです。パウロ同様真の救い主イエス キリストと出会うようにと、神はわたしたちを招き続けていてくださるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちを信じる関係に招き入れてくださって、ありがとうございます。どうかあなたを喜んで歩んでいくことができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン