聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

「悟るように語り続けられる主」(ホセア書4:11~14)

 「悟るように語り続けられる主」

 

 2022年8月28日(日) 聖霊降臨日後第12主日

聖書箇所:ホセア書  4章11節〜14節

 

人間は、何かに頼らなくては生きていけない存在です。人間は、生きていくのにあたって、何らかの判断基準を必要としています。何をなすべきであり、反対に何をすべきでないのか、それらを判断する基準、支えを必要とします。それが、人によっては、宗教であったり、哲学であったり、信念であったりするわけです。 人間は、一人で生きていくことができない社会的な生き物です。共に支え合い、協力しなくては、生活していくことはできません。人間は、共同生活なくしては生きていけない存在です。そして、この共同生活を行うには、必然的にルールを必要とします。みんなが受け入れ、支えとし、お互いを守っていくことのできるルールを必要とします。このルールは、民族、宗教、文化の違いによって、変わってきます。そして、このルールは、ルール自身の持つ内的な権威によって、人々に受け入れられるか、あるいは、権威ある者によって強制されるかによって守られていきます。

しかし、このルールは共同体に属する者を、ある意味、強く拘束するため、違うルールが混じり込んできた時に、混乱を引き起こします。この時、人間は、自分の内側に抱え持つ大きな矛盾を露呈します。人間は、決して自分一人では生きていけないにもかかわらず、基本的に束縛を嫌うからです。

精神的にも、経済的にも、社会的にも一人で生きていくことができないくせに、できることなら、自分は自由気ままでいたいと思うのです。だから、複数のルール、このルールという言葉は、価値観や価値基準と言い替えることができますが、生活の場に、複数の価値基準が存在している時に、人間は自分に都合のいい価値基準を、自分の好みに合う価値基準を選ぼうとするのです。昔からのしきたりを大事にする人、新しいやり方を好む人、みんなと一緒がいい人、個人、個人が自由なのがいい人、それぞれが自分に合う価値基準を選ぶのです。 こうなってきますと、共同体は次第に混乱をきたします。今まで自分たちを支えてきた共通のルールが、共通ではなくなってくるのですから、当然といえば当然です。お互いの都合がぶつかり合い、トラブルが生じます。トラブルが生じる中で、今度は、新しい秩序を生み出そうとする努力がなされます。私たちが生きているこの時代は、新しい秩序を生み出す努力をおこなっている時代です。しかし、まだ、新しい秩序は見出されてはいません。世界的にも、国内においても、様々な混乱や荒廃が存在しています。権威ある者は、教育や道徳によって秩序を作りだそうとします。宗教や哲学もそれぞれの仕方で秩序をもたらそうとしています。このように今、世界は、多様な価値観、文化が、平和に共存し得る秩序を求めて必死になっています。

 

この混迷した時代に私たちはどう生きていけば良いのでしょうか。何を依り所として、何を頼みとして生きていけば良いのでしょうか。物質的に恵まれた自由な時代だから、好きに生きていけば良いのでしょうか。 今日お読みました聖書の御言葉は、豊さと平和の中で、別の宗教に走り、次第に混乱の度合を深めていった北イスラエルの民に向かって語られています。

神によって選び出されたイスラエルの民は、本来頼りとすべきもの、民族共同体のルールを、神から与えられていました。私たちが手にしている聖書の最初に記されている創世記、出エジプト記レビ記民数記申命記の5つの書物が、イスラエルの民に与えられた神の言葉でした。神はここにおいて、人間の罪の問題、罪ある者が神と共に生きるための礼拝の問題、道徳的な戒め、民法や刑法の問題に至るまで細やかな配慮を行って、イスラエルの民が祝福のうちに生きることができるように語っていてくださいます。

これらの御言葉は、私たちキリスト者も神の言葉として持っているわけですが、その私たち自身が、神の言葉に従い得ないことをよく知っています。そして、私たち自身が神の言葉から離れて生きようとする罪を負っていることをよく知っているのです。 今日の御言葉の中に出てくる酒も、木に向かって事を尋ねることも、犠牲を献げることも、異教の神々を崇める偶像礼拝に関連する事柄です。聖書は、この偶像礼拝を一言で言って「心地よい」から、彼らは行うのだと13節で、述べています。確かに偶像礼拝は、心地よいし、大変、楽なのでしょう。献げものだけを献げたら、後は好きに生きることができる。

キリスト教の神のように毎日どう生きるかまで語ることはない。迷った時に、占ってもらって、どうすれば自分に都合よく事が運ぶかを決めてもらう。神に仕える時には、飲んで食べて、騒いで時を過ごす。まるで保険をかけるかのように神に献げものをし、迷った時、困った時には、神のもとを尋ね、楽しいことがある時には、熱心な信仰者になる。これが心地よい偶像礼拝の姿なのです。 これは、私たちを取り巻く状況とよく似ていないでしょうか。お正月やお祭りの時、たくさんの人が神社に集まります。占いは、どんな雑誌を見ても載ってない本がないぐらいに盛んです。ほとんどの人は、死ぬと仏教式で葬儀を行います。お彼岸やお盆の行事は欠かしません。しかし、ほとんどの人は、自分は無宗教だと言います。たくさんの神々が存在し、宗教行事は賑やかに行われていますが、ほとんどの人は、自分の都合で、神を利用しているだけの偶像礼拝をしているのです。その結果、聖書に記されているように思慮は奪われ、誤った導きを示され、宗教儀式や宗教産業は盛んになるけれども、生きることそのものは崩れてくるのです。北イスラエルにおいては、偶像礼拝と共に、性的不品行が広まり、家庭の崩壊、社会の廃退をもたらしました。今の日本の状況はどうでしょうか。新聞・テレビ・雑誌などで目にすることはどうでしょうか。私たちの周囲の様子はどうでしょうか。思慮を奪われてはいないでしょうか。誤ったことが示されてはいないでしょうか。儀式は盛んで、人々も楽しんでいるようでありながら、生活が崩れてはいないでしょうか。様々な破れや痛みを抱えて苦しんでいないでしょうか。 神は、今日の最後のところ14節で「悟りのない民は滅びる」と言われました。

これは審きの言葉ではなく、私の声を聴いて悟りなさい、という招きの言葉です。

では、私たちは何を悟らねばならないのでしょうか。それは、神の言葉に照らされて、私たちの本当の姿を悟るのです。

誰が私たちに命を与えてくださったのか。私たちの苦しみの本当の原因、罪とは何なのか。一体誰が、この罪の悲しみの中から救ってくれるのか。誰が私たちを本当に愛してくれているのか。私たちはどのように生きたら良いのか。私たちの希望はどこにあるのか。これらの一つ一つのことについて、神の言葉に照らされ、導かれながら悟るようにと、神は招いておられるのです。 神は、私たちを祝福のうちに御自身の姿に似せて愛に生きる者としてお造りくださいました。

神は、罪を犯し、繰り返し背く私たちを、なお愛してくださり、私たちの救いのために独り子である御子を人としてこの世に遣わされました。

 

ヨハネによる福音書の3章16節には「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とあります。神が御子を遣わされたのは、世を審くためではなく、御子によって、世が救われるためなのです。そして、御子イエスは、私たちの救いのために、神の栄光を捨て、人としてこの世に来られ、私たちのために、十字架の上で御自身の命を献げられました。ヨハネの手紙1の2章2節には、「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」とあります。

神は、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます(テモテ第1:2:4)。

ですから、紀元前8世紀の預言者ホセアを通して、民が悟るようにと、語られますし、今日、全世界のキリストの教会を通しても、私たちに悟るようにと語り続けられるのです。 このようにして語られる、この神の言葉には力があります。闇に光を照らしだし、無からすべてを創り出し、命を生み出す力があります。私たちを罪の闇の中から神の光の中に救い出す力があります。私たちを死の滅びから永遠の命へと移しかえる力があります。この力に満ち溢れる神の言葉が、今、皆さんに「悟りなさい」と呼びかけているのです。

私たちは、何を信じても同じでは、決してありません。熱心であれば、どれでもいいのではありません。私たちには信ずべきもの、依り頼むべきものがあるのです。移りゆくこの世にあっても、変わることなく、世の初めから今に至るまで、そして私たちが罪に身を沈め、神に背を向けている時にも一点の曇りもない、全き愛をもって語り続けてくださる、この神こそ信ずべきお方なのです。この方のもとにこそ、命と愛とが満ち溢れているのです。

本当に信ずべきお方を信じる時、私たちはその祝福のうちに、生きることができます。

そして、その祝福は信じる者だけを祝福するのではなく、共にいる者をも祝福するのです。 14節で、神は人々の罪の責任を、祭司に対して問うておられますが、逆に言うならば、神に仕え、神の言葉を取り次ぐ祭司が神から離れず忠実であるならば、民もまた、神の祝福のうちにあったということです。今、神の言葉を聴いた私たちが悟り、御言葉を伝え、証して生きるならば、大いなる神の祝福を見ることができるでしょう。いかにこの世の現実が立ちはだかろうとも、神の力によって祝福が現れ出るのです。 私たちは、死に向かって虚しく生きるのではありません。本当に信ずべきお方を信じる時、死から永遠の命へと移され、神の祝福を取り次ぐ器として用いられていくのです。喜びと感謝の人生が、ここにはあるのです。今こそ悟るべき時、祝福に生きる時なのです。 

祈ります。