聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

「祈りによって、神とともに歩む」(ルカによる福音書20:45~47)

 「祈りによって、神とともに歩む」

 

 2021年6月27日(日) 主日礼拝  

聖書箇所:ルカによる福音書 20章45節〜47節

 

 前回、イエスは人々がキリストを「ダビデの子」と呼ぶことの間違いを指摘されています。キリストはダビデの子ではなく、神の子なのであります。

 

 きょうの45節以下のところでは、イエスは弟子たちに言われます。「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」

 イエスは「律法学者に気をつけなさい」と言って、キリストを宣べ伝える弟子たちのあり方、心構えを語られました。

 第一は、「長い衣をまとって歩く」ということです。この長い衣は律法学者のユニフォームとも言える服装であると指摘しているものがありました。一目で律法学者と分かる服装をして、広場や市場を歩くのです。自分は律法学者なんですよ、と長い衣に語らせるのです。なぜなら、律法学者であると分かると敬意を払ってもらえるからです。律法学者の自尊心が満たされるというものです。

 第二は、第一とつながりますが、「広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む」ということです。これも敬われることで、自尊心を満たそうと願っていることが分かります。

 第三には「やもめの家を食い物にし」とあります。聖書にある律法学者というのは、神が定めた法律の専門家という意味です。律法と訳されるギリシャ語「ノモス」は、聖書以外では普通「法律」と訳されます。ですから、律法学者というのはユダヤにおいては法律の専門家です。夫を亡くした未亡人である「やもめ」が財産の管理などを律法学者に依頼します。今日であれば、弁護士や司法書士などの法律の専門家に法律に関わる仕事をお願いするのと同じです。

 旧約を読むと分かりますが、神はやもめがちゃんと暮らしていけるように、配慮しておられます。例えば、申命記10章18節では「孤児と寡婦(やもめ)の権利を守」るように命じられています。またエレミヤ書49章11節では「あなたのみなしごを置いて行け/わたしが育てる。あなたのやもめらをわたしにゆだねよ」と言われています。神がこのようにやもめを心にかけておられるのを律法学者は当然知っています。それなのに、自分を満たすために律法を利用して奪い取ってはならないのです。

 第四は、「見せかけの長い祈りをする。」ことです。自分の信仰が立派だと思われるために、祈りを利用してはならない、ということです。

 これらを通して、イエスは弟子たちに、あなたたちに託された務めは自分を満たすことではない、自分を満足させるために神を利用してはならない、ということを言っておられるのです。

 人によって程度は異なりますが、わたしたちは人が自分をどう評価しているのか気になります。特にわたしたち日本人は、世間の目を評価の基準とする文化の中で生活をしています。世間に迷惑をかけないことを倫理の基準にしがちです。どうしても他人の目が気になります。しかしこれは、きょうの聖書の記事からも分かるとおり、日本人だけの問題ではなく、罪人に共通する問題です。

 ですから、教会は人の目や人の評価ではなく、神の前に立つことを大切に考えてきました。そのために重んじられたのが「祈り」です。祈りは、神の御名を呼び、神の御前に進み出るための、神からの贈り物、プレゼントです。

 教会の始まりとされる聖霊降臨の出来事は集まって祈っているときに起こりました。日本の教会の始まりも、新年の祈り会において起こりました。祈りは、神と共に生きるために欠かせない恵みの賜物であります。旧約の中に150篇もの詩編、祈りがあり、神が祈りをご自身の言葉として聖書に入れられたことからも、祈りの大切さが分かります。

 日本キリスト教会も、祈り会を主の日の礼拝と共に、信仰生活の車の両輪と位置づけ、大切にしてきました。皆さんは今、祈りを大切にしておられますか? 人の目を気にするのではなく、神の御前に立ち帰り、人から評価されるのではなく、神から祝福されることを求めて、祈りによって神と共に歩んでおられるでしょうか?

 

 神を証しする務めを託された者が、人からの評価を求め、自分を満たそうと勘違いすることがないようにと、イエスは「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」と弟子たちに注意を与えられたのです。

 

 復活されたイエスは、弟子たちに次のように言われました。マタイによる福音書28章19節20節「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」

 そして今、わたしたちは洗礼を受けてキリストの弟子とされている者、あるいはキリストを信じて弟子となるようにと招かれている者です。キリストの弟子として、神の御業、救いの御業に仕える務めが与えられているのです。きょうの御言葉はまさしく、今の教会のわたしたちに向けて語られた言葉なのです。