聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ヨハネによる福音書 1:19〜23

2019年1月2日(水)新年礼拝  
聖書箇所:ヨハネ 1:19〜23(新共同訳)

 

 洗礼者ヨハネは、イエス キリストに先立って活動を始めました。その呼び名のとおり、彼はヨルダン川で洗礼を授けました。これは悔い改めのしるしとしての洗礼でした。
 これはブームと言ってよいほど多くの人々がヨハネのもとに集い、洗礼を受けました。当時のユダヤ教のあり方では、満たされず、ヨハネの教えを受けて悔い改めの生活を求めた人が大勢いたのです。
 悔い改めというのは、本来の意味は、立ち帰ることで、神に立ち帰ることを悔い改めと言います。神と共に確かな道を歩みたい、神に祝福される道を歩みたいと考える人が大勢いたのです。
 あまりに大勢の人が洗礼者ヨハネのもとに集まり、洗礼を受けるので、エルサレムの宗教指導者たちはこれを無視することができなくなり、祭司やレビ人たちを彼のもとに遣わして「あなたはどなたですか」と尋ねさせました。

 ヨハネははっきりと「わたしはメシアではない」と答えます。

 メシアというのは、本来「油注がれた者」という意味で、神から命じられた務めに就くため、油を注いで神の務めに聖別された者を言います。王や祭司なども、油を注がれて任職され、務めに立てられました。それが段々と神が御業のために最後に立てられる救い主を表す言葉として使われるようになっていきました。
 つまりヨハネは「わたしは神が約束され、皆が待ち望んでいる救い主ではない」と言ったのです。

 すると祭司やレビ人たちは「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねます。
 エリヤというのは、紀元前9世紀に北イスラエル王国で活動した預言者です。エリヤは偶像礼拝を戒め、神に付き従うように語りました。そして彼の活動の終わりは「見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ・・・エリヤは嵐の中を天に昇って行った」(列王記下 2:11)と記されており、死んだのではなく生きたまま天に上げられたと書かれている伝説の預言者です。そしてマラキ書 3:23(口語訳 4:5)では「見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす」と言われており、主の裁きの日の前にエリヤが遣わされると信じられていたのです。
 しかしヨハネは「違う」と答えます。

 すると彼らはさらに「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねます。
 あの預言者とは、申命記 18:15でモーセが語っている預言者のことです。申命記 18:15にはこう書いてあります。「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない」。
 彼らは「あなたは神が約束されたモーセのような預言者なのですか」と尋ねたのです。
 ヨハネは答えます。「そうではない」。

 彼らはいらだち、「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか」とヨハネに詰め寄ります。

 そこでヨハネ預言者イザヤの言葉を用いて答えます。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」
 これはイザヤ 40:3の引用です。そこにはこう書かれています。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」。

 イザヤ書の引用と言いましたが、今わたしたちが考える引用とは違います。わたしは今イザヤ 40:3を引用して紹介しましたが、わたしは聖書を開いて、イザヤ書の言葉を正確に引用しました。しかし、ヨハネは聖書を傍らに持ち歩いて、聖書を開いて引用した訳ではありません。まだ一人ひとりが聖書を持ち歩けるような時代ではありませんでした。ヨハネが心に蓄え、記憶された言葉が出てきます。ですからヨハネの言葉は、イザヤ書に似ていますが、同じではありません。
 わたしはこれが大事なことだと思います。わたしたちの周りには本がたくさんあって、それを開いて正確に引用しようとします。そして昔よりもはるかにたくさんの情報に囲まれているので、昔の人ほど聖書を心に蓄えることができなくなっているのかもしれません。そしてネットで調べれば、いろいろなことが分かるので、ますます覚えなくなっているかもしれません。だから聖書の言葉が心に浮かび上がってくることが少なくなってしまったので、御言葉に基づいて判断することができなくなってきているのではないでしょうか。
 説教を繰り返し聞く、聖書を繰り返して読み祈る中で、心に御言葉を蓄えていくということを、是非して頂きたいと願っています。

 ヨハネは、荒れ野で叫ぶ声です。何と叫ぶのか。「主の道をまっすぐにせよ」と叫びます。イザヤ書を見ると「主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」と呼びかけるのです。
 これは、主を迎え入れるために、主が自分に近づいてきて下さる道をまっすぐに整えるのです。
 ヨハネは、来たり給う主を自分自身に迎え入れ、主と共に歩み行くことができるように、準備をしなさい、と呼びかけているのです。
 聖書が告げる救いとは、神と共に生きることです。命の源である創り主、永遠の命の希望である救い主なる神と共に生きることです。罪ゆえにわたしたちは神から離れていってしまいますが、神はわたしたちを救うため、ひとり子を人として世に遣わし、神の方からわたしたちに近づいてきてくださるのです。その神の御業に呼応するように、わたしたちも主の道を備え、まっすぐにするように、とヨハネは呼びかけ、悔い改めの洗礼を行っていたのです。

 先ほども言いましたように、悔い改めとは神に立ち帰ることです。神はわたしたちの救いを願って、絶えず招き続けていてくださいます。その招きに応えて、悔い改め、立ち帰るのです。わたしたちが献げている礼拝も、神の招きの言葉から始まります。わたしたちは神に招かれ、その招きに応えて、礼拝を献げるのです。

 ヨハネの黙示録にこういう言葉があります。「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(黙示録 3:19, 20)。
 イエス キリストがわたしたちを救うために、来てくださっているのです。わたしたちは、わたしたちのために来てくださった救い主を迎え入れるために、道を整え、戸を開いて、主を自分自身の中に迎え入れるのです。そこに主と共に食卓を囲み、主の恵み与る喜びが生まれるのです。

 この新しき年、主の呼び声、招きの声に耳を傾け、心を開きましょう。主と共に生きる幸いに与りましょう。主と共に歩む時、信仰は育まれ、主の愛と恵みの豊かさを見ることができるでしょう。


ハレルヤ


父なる神さま
 どうかあなたの招きの声を聞くことができますように。あなたの御言葉こそ、わたしたちを救いへ、永遠のいのちへ導くことに気づかせてください。あなたと共に歩む幸い、喜びに与ることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン