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「絶えず踏みとどまって悔い改める」(ルカによる福音書22:28〜30)

「絶えず踏みとどまって悔い改める」

 

 2021年10月17日(日) 主日礼拝  

聖書箇所:ルカによる福音書  22章28節〜30節

 


 最後の晩餐の席で、弟子たちが(24節)「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか」と議論している中でイエスは語られました。(26節)「いちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」

 これに続くのがきょうの箇所です。28節~30節をもう一度読みます。「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」

 まず弟子たちは、自分たちのうちで誰が一番偉いだろうかなどと、議論する必要はないのです。それは自分たちが決めることではありません。賜物を与えるのも、その人を用いるのも、神がなさることです。神のひとり子であられるイエス・キリストご自身が、仕える道を歩まれ、十字架を負われました。(エフェソの信徒への手紙1:20)「神は・・・キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせられました。」わたしたちの歩むところもまた、わたしたちを造り、キリストを遣わすほどに愛していてくださる神によって定められるものです。 キリストに従う者にとって大事なのは、キリストに倣って仕えること、そしてきょうの箇所で言われている、(28節)「種々の試練に遭ったとき、絶えずイエスと一緒に踏みとどま」る、ということです。

 ここで試練と訳されている言葉は、別の箇所では誘惑と訳される言葉です。聖書では試練も誘惑も、信仰が試される同じ事柄です。信仰に踏みとどまって試練や誘惑に打ち勝つのか、踏みとどまれずに流されてしまうか、ということです。わたしたちの生涯の中では、試練や誘惑には勝つこともあれば、負けることもあるでしょう。しかし、たとえ負けて流されても、諦めずにイエスへと立ち帰り、イエスと共に歩き出すかどうか、が大切なのです。これを聖書では「悔い改める」と言います。この後、イエスが逮捕されたとき、逃げ出した弟子たちが「悔い改める」のを諦めたなら、キリストは伝えられませんでした。しかし復活の主に導かれ、聖霊の力を受けて、イエスへと立ち帰り、イエスに従って歩み出しました。自分の弱さに諦めてしまうのではなく、絶えず踏みとどまって「悔い改める」のです。諦めずに「悔い改める」のです。

 この「悔い改め」を通して、でなくては、わたしたちは「イエスと一緒に絶えず踏みとどまる」ことはできません。そしてわたしたちが、諦めずに「悔い改める」というその道に導かれるのは、イエスがわたしたちを知っていてくださり、知っていて、なお招いてくださるからです。

 ヘブライ人への手紙4:15はイエスを指してこう言っています。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」

 イエスはわたしたちを救うため、試練の中に来てくださいました。わたしたちがどのような試練や誘惑に遭うのか、イエスは知っておられます。そして、その試練や誘惑に、負けてしまうことが度々あることもイエスは知っておられます。ユダの裏切りも、弟子たちが逮捕を恐れて逃げ出すことも、ペトロが三度イエスを知らないということも知っておられました。知っていて弟子とされたのです。わたしたちを知っていてくださる方が、わたしたちの名を呼び、召していてくださる、招いていてくださるのです。だから諦めずに何度でも「悔い改める」ことができるし、「悔い改め」てイエスの許へ立ち帰ることへと、わたしたちは導かれているのです。

 諦めずに「悔い改め」た先に何があるかというと、神の国があるのです。(29節)「わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。」とイエスは言われます。ここで「ゆだねる」と訳されている言葉は、「契約する」、「遺言する」という意味を持った言葉です。つまり、神の国を相続する、契約に基づいて受け継ぐということです。

 ローマの信徒への手紙 8:15~17にはこうあります。「あなたがたは、・・・神の子とする霊を受けたのです。・・・この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」

 ここで「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」と言われます。イエスに従って歩むとき、試練もあれば、苦難もあります。イエスご自身(ルカによる福音書 9:23)「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と言われます。しかし、「絶えず踏みとどま」って、諦めずにイエスへと立ち帰り、イエスと共に歩んでいくとき、栄光をも共にするのです。

 繰り返しになりますが「踏みとどまって」と言うとき、それは決して躓かないということではありません。先ほども言いましたが、この話の直後、弟子たちは逮捕を恐れて逃げ出してしまいます。ユダは裏切りました。ペトロは三度知らないと言います。イエスはそれを知っておられました。知っていて、きょうの御言葉を弟子たちに語られたのです。ですから「踏みとどまる」と言うとき、それは躓かないとか罪を犯さないという意味ではありません。最後まで、キリストへと立ち帰り、キリストと共にある。そしてキリスト共に新たに歩み出す。そのことを指して、イエスは、「絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた」、と弟子たちに言ってくださるのです。

 ですから、罪によってイエスから離れてしまうけれども、御言葉によってもう一度立ち帰る。復活の主の招きによって立ち帰る。聖霊の導きによって立ち帰ってキリストと共に歩んでいくとき、わたしたちは神の相続人、キリストと共同の相続人とされ、神の子として、キリストと神の栄光を共にするのです。

 わたしたちは、キリストによって神の子とされ、共同の相続人とされました。キリストと共同の相続人として、父なる神からキリストが受け継いだ神の国を、キリストと共同の相続人として、キリストから受け継ぐのです。

 そしてわたしたちは、神の国の食卓で一緒に食事をする親しい交わりに入れられるのです。神の子として神の国に入れられ、神の家族の交わりに与るのです。

 さらに、キリストと共に王座について、神の国を治めるのです。 治める務めは、創造の始めから与えられていたものです。(創世記 1:27, 28)「神は御自分にかたどって人を創造された。・・・神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」

 救いの完成するときには、創造のときの恵み、神が見て「良かった」と言われた恵みが回復され、キリストと共に歩んだ者にその祝福の務めが与えられるのです。

 ここでイスラエルの十二部族と言われているのは、神の国を表しています。神が治め導かれる世界をキリストと共に治めていく。神の栄光が現れるように、神が「良かった」と言われた喜びが満ちあふれるように、治めていくのです。

 ですから、わたしたちキリストに従い行く者は、誰が一番偉いか、などと信仰を比べたり、人に信仰を認めてもらうことに、心とらわれる必要はないのです。キリストがこのわたしを知っておられます。愛していてくださいます。招いていてくださいます。だから、試練や誘惑の絶えない世にあって「絶えず踏みとどまって悔い改める」のです。

 神によって造られたわたしが、その恵み、幸いを覚えることのできるところ、喜ぶことのできるところ、それが、このわたしのために命をさえ差し出してくださる、キリストの御前なのです。イエス・キリストの前でこそ、神の「良かった」という言葉を聞くことができるのです。「あなたがわたしの遣わした救い主を信じてくれて『良かった』。わたしが造ったあなたが、罪によって失われなくて『良かった』。あなたがわたしと共に生きようとそう思ってくれて『良かった』。」

 イエス キリストの許にこそ、神の限りない「良かった」という言葉がわたしたち一人ひとりに与えられるのです。だから「絶えず踏みとどまって悔い改める」のです。イエス キリストの許にわたしたちのいるべき場所がある。幸いがある。救いがある。喜びがある。だから何度離れても、主の御声を聞いて、何度でもキリストへと立ち帰り、神の招き、神の召しに従って生きるのです。そして、キリストの共同の相続人として、神の国を受け継ぎ、神の国の祝福・喜びに与るのです。

 この未来を仰ぎ見つつ、わたしたちは今キリストに従い、救いの道を歩んでいるのです。

 

祈り

 

 主イエスキリストの父なる神様、あなたの大きな救いの恵みに感謝いたします。多くの試練の中に私たちはあります。しかし、どうかこのようなときでもキリストと一緒になり「踏みとどまって悔い改める」ことができますように。罪多い私たちをどうか導いてください。そして私たちがキリストの共同の相続人として神の国を受け継ぎ神の国の祝福・喜びに与れることができますようにしてください。主イエスキリストの御名を通して祈ります。