聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ヘブル人への手紙 2:9〜18

2017年12月24日(日)主日礼拝
聖書箇所:ヘブル人への手紙 2:9〜18(口語訳)

 

 きょうはイエス キリストの誕生を祝うクリスマスの礼拝です。
 ですが聖書を見ても、キリストが12月25日に生まれたとは書かれていません。教会がキリストの誕生を祝うのは、神の言葉が真実であることを覚えるためであり、救いの完成を仰ぎ見るためです。神はわたしたちを救うために御子を救い主としてお遣わしになられた。神は救いの約束を実現してくださった。そのことを覚え、これからも神の言葉は真実であり続けることを確認するために、教会はクリスマスを祝うのです。
 今年の待降節は、創世記のアブラハム、イサク、ヤコブの話を聞いてきました。キリスト誕生の千年以上前からキリストの到来が示されており、アブラハム、イサク、ヤコブに起こった出来事は、イエス キリストにおいて成就したことを確認してまいりました。
 きょうはヘブル人への手紙を読みました。ヘブル人というのは、イスラエルのことです。この手紙は、イエスは誰なのかを伝えようとしている手紙です。旧約の民イスラエルの人たちに対して、イエスこそキリスト救い主であることを伝えようとしている手紙です。

 9節には「イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光とほまれとを冠として与えられた」とあります。イエスは十字架に掛けられて地上の生涯を終えられました。聖書はこのイエスの死によって、神は罪人を贖われたと理解します。2コリント 5:21には「神はわたしたちの罪のために、罪を知らない方を罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となる」ためであると述べています。そしてこの死の故に、イエスは栄光と誉れとを冠として与えられたと告げます。聖書は、キリストの十字架は、神の偉大さと尊さを表すものであったことを伝えています。遙かな昔から伝えられてきた神の約束、神がわたしたちを救ってくださるという約束がキリストの十字架によって実現されたというのです。
 そしてこの出来事が起こったのは「彼(キリスト)が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった」と語ります。キリストの死は、すべての人を罪から救うための神の恵みであったというのです。ここで言う神の恵みは、すべての人を救うことを指します。すべての人を救うために、キリストはすべての人のために死を味わわれたのです。
 そして10節では「万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君を、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであった」と語ります。ここで「彼にふさわしいこと」というのは、キリストにしかおできにならないことだった、という意味です。罪を贖うための苦しみを担うのは、神の御子イエス キリストにしかできないことであった、ということです。

 聖書が告げる罪は、関係を破壊し、絆を断ち切ります。しかし神の救いの御業は、関係を回復し、絆を新たに創造します。罪から救うというのは、この関係の回復です。神と人との関係、人と人との関係、人と世界との関係、すべての関係を回復し、共に生きる絆を新たに創造するのです。「きよめるかたも、きよめられる者たちも、皆ひとりのかたから出ている。それゆえに主は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない。」キリストの救いの御業は、新たに神の家族という関係を造り出してくださいました。「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つ」(ガラテヤ 3:28)とされたのです。
 イエスは、罪によって破壊され失われてしまった絆を、ご自分のなす救いの御業によって「キリスト・イエスにあって一つ」としてくださり、神の家族としてくださったのです。

 イエスは「死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つため」(14, 15節)に来られました。そしてイエスはご自身の御業により「神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねば」(17節)なりませんでした。「主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができる」(18節)のです。
 試練の中にあるわたしたちを救うために、キリストは人となられたのです。あらゆる点においてわたしたちと同じになり、肉体を取って人となられたのです。

 救いを説明するのに、溺れている人に神が手を差し伸べられるというたとえが使われることがあります。このたとえで言われるのは、一人ひとりの前に神の救いの御手が差し出されている。その神の御手をつかむことが大事だということです。しかしこの譬えで言われているように、キリストは安全な岸辺から手を差し伸べられたのではありません。キリストは試練のただ中に来て、試練を受けて苦しまれました。そして苦しまれたからこそ、試練の中にある者、苦しんでいる者の気持ちもつらさも悲しみも分かっていてくださり、そこからわたしたちを助け出してくださるのです。今言いました譬えで言いますならば、キリストは手を差し伸べておられるというよりも、罪に溺れ苦しむわたしたちのところへ飛び込んできてくださったのです。苦しみも痛みもその身に負って、救い主となってくださいました。イエス キリストは、わたしたちを「見放すことも、見捨てることもしない」(ヨシュア 1:5)ただ一人の真の救い主なのです。イエス キリストこそインマヌエルの主、「神我らと共にいます」(マタイ 1:23)お方なのです。
 神はご自身のひとり子イエス キリストによって、救いの約束を成就してくださいました。イエス キリストにおいて、神はご自身の真実を証ししてくださったのです。

 最初に言いましたように、教会がクリスマスを祝うのは、神の言葉が真実であることを覚えるためであり、その真実に支えられ導かれて、救いの完成を仰ぎ見るためです。今年は、創世記からアブラハム、イサク、ヤコブの話を聞いてきました。神は3,000〜4,000年の時を掛けてご自分の真実を証しし続けてきました。そして、今年も神の真実を聞く時を与えてくださったのです。聖書は語ります。「こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。」(2ペテロ 1:19)

 イエス キリストこそ、インマヌエルの主、わたしたちと共にいてくださる真の救い主なのです。

 

ハレルヤ