聖書の言葉を聴きながら

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ローマの信徒への手紙 6:1〜4

2020年2月5日(水) 祈り会
2020年2月9日(日) 主日礼拝
聖書:ローマの信徒への手紙 6:1〜4(新共同訳)


 パウロは、「キリストを信じる信仰の義によって救われる」ということを丁寧に語ってきました。キリスト以外のものに望みを置かないように、割礼や律法を守っていることで自分を誇ることがないように、神がイエス キリストを通してどれほど大きな恵みを注いでくださったかを語りました。

 律法は本来、罪の世で神から離れてしまわず、神と共にあるための恵みでした。当然律法は、神に従い生きることを求めます。その律法の前で、人は神とは違う思いを抱く罪があることが明らかにされます。けれど、そこに神はイエス キリストを遣わされました。神はキリストによって義をお立てになりました。ただ一つの完全な義をお立てになりました。義とは正しい関係です。神との正しい関係は、愛と信頼によって立てられます。イエスは、十字架の死に至るまで神の御心をよしとして従う完全な義を立てられました。「キリストは・・自分を無にして・・人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ 2:6~8)それに対して神は、復活という命の奇跡をもってお応えになりました。このイエス キリストの義によって、神は罪によって壊れてしまった「信じる」ということを回復してくださったのです。

 信仰生活を続けると分かりますが、信じるということは簡単ではありません。祈っているのに自分が望まないことが与えられる。本当に神はおられるのか、神はわたしを本当に愛しておられるのか、信じられなくなること、信じることをほどほどにしておこうと思えることがたくさんあります。それなのに自分に罪がないにもかかわらず、捨てられ裁かれる十字架に至るまで従順であられたイエスの信仰は、まさしく救いの御業です。わたしたちは律法は守れないけれど、信じることならできるのではないのです。律法も守れないし、信じ抜くこともできません。ただイエスお一人が、わたしたちのために罪なき生涯を送り、最後まで信じ抜いてくださったのです。そしてこのイエスの救いの業は、わたしたちに永遠の命をもたらしました。

 しかし、神がこれほどまでにわたしたちを罪から救い、わたしたちと共に生きたいと願っておられるのに、罪は神の御心をねじ曲げることを考え出します。
 「罪が増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれたんですよね。それなら、恵みが増し加わるために罪に留まったらいいんじゃないでしょうか。」「恵みが増し加わるのを期待して、罪の中に留まる」のはどうでしょうか(フランシスコ会訳)。

 罪はいつだって、神より賢いふりをして「もっとあなたに都合のいい道がありますよ」とささやきかけてきます。エデンの園でもそうでした(創世記3章)。けれど、この罪の口車に乗ってしまうと、失ってはならない本当に大切なもの、命の恵みを失ってしまいます。こうして人は、罪に囚われ、死に支配されるようになってしまいました。
 ですからパウロは「決してそうではない」と断言します。
 そもそも神は、わたしたちに神と共に生きることを望んでおられるのです。神と共に生きるためのキリストの御業なのです。「恵みが増し加わるために、罪に留まるべき」などということはあり得ないのです。罪に導かれて、神よりも賢いなどと考えて、自分に都合のよさそうな理屈を振り回すと、命の恵みを失ってしまいます。

 わたしたちはキリストの恵みに与るために、信仰を告白し、洗礼を受けました。
 洗礼は、聖晩餐と共にイエス キリストご自身が定められた礼典で、キリストの救いの恵みを覚えるためのものです。イエスの救いが完全であることを表す一度限りの洗礼、イエスの恵みによって養われ、新しい命に生きることを表す繰り返される聖晩餐。罪の世で弱さを抱えるわたしたちが、救いの恵みへを覚えるために洗礼と聖晩餐は与えられました。

 洗礼は水の洗いと言われ、水が汚れを洗い流すように、キリストの救いの御業によって罪が洗い清められることを表します。これは使徒言行録で語られているものです。悔い改めの洗礼と言われ、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。」(使徒 2:38)また「洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。」(使徒 22:16)と言われています。

 もう一つ洗礼について言われているのが、キリストと一つにされるという神の奇跡を表すことです。パウロがこのローマ 6:3, 4で言っているのが、キリストと一つにする洗礼です。「あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」

 洗礼は、キリストと一体とされる神の秘義を指し示すものです。罪人をキリストと一体として、キリストの復活の命に生まれ変わらせ神の子とするという神の奇跡を洗礼は証しするのです。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」(ガラテヤ 3:26, 27)

 洗礼というのは本来、沈める、浸すという意味です。「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた」というのは、文字通りにはキリストご自身に沈める、キリストご自身に浸すという意味です。丁度藍染めで、染料の中に糸を沈めて染めるように、キリストご自身に沈められ、キリストと一体とされ、その十字架の死、復活、キリストご自身と一つにされるのです。
 一つとなり、一体となるということは、もはやキリストと分けることはできず、キリストのすべてに与るということです。キリストを救い主として信じ、洗礼を受けるということは、キリストと一つとされて、キリストと共に生きるということなのです。だからパウロはこうも語ります。「わたしはキリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ 2:19, 20)

 このキリストと一つにされるという奇跡は、ほとんどの人にとって実感を伴いません。だからイエスは洗礼と聖晩餐という聖礼典を定め、目に見えるしるしを与えてくださったのです。ルターも自分の救いに不安を感じたときは「このわたしはキリストの洗礼を受けた者である」と何度も書いたというエピソードが伝えられています。
 わたしたち洗礼を受けた者は、キリストと一つにされ、その死と復活に与り、新しい命に生きているのです。そこからはもはや「恵みが増し加わるために罪に留まるべきであろうか」などという考えは出てこないのです。

 さらにキリストと一つにされたわたしたちキリスト者は「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられて」いくのです(2コリント 3:18)。復活の主は、わたしたちの未来の姿なのです。わたしたちは、神の恵みによって、栄光から栄光へ、恵みから恵みへ、信仰から信仰へと、救いの道を喜びと感謝をもって歩んでいく神の子とされたのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたは、わたしたちにひとり子イエス キリストを惜しみなく与え、わたしたちをキリストと一つにし、神の子としてくださいました。キリストの十字架も復活も、その生涯のすべてがわたしたちに与えられています。どうかわたしたちが、あなたの恵み、イエス キリストに満たされて生きることができますように。救いの道を生きる幸いを、わたしたちに味わわせてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン