聖書の言葉を聴きながら

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ローマの信徒への手紙 9:19〜24

2019年11月3日(日)主日礼拝  
聖書:ローマの信徒への手紙 9:19~24(新共同訳)


 パウロは、神の救いの御業を語る中で「神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされる」(18節)と言います。
 であれば、19節の神への問いかけは当然です。「ところで、あなたは言うでしょう。『ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか』」。神がかたくなにしたい者をかたくなにされるのならば、かたくなであることを責められるのは理不尽というものです。わたしたちが神の御業に逆らえないのであれば、なおさらです。

 パウロはそれに対してこんな答えをします。「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言えるでしょうか」。しかし、そんな言葉で納得なんかできません。ヨブと同じように神に訴えずにはいられません。「理不尽ではないですか」と叫ばずにはいられません。

 続く器のたとえは、(70人訳と呼ばれる旧約のギリシャ語訳の)イザヤ 29:16からの引用です。この器のたとえは、イザヤ書エレミヤ書に何回か出てくるものです。ですから、ユダヤ人であればよく知っているたとえ、「預言者も言っているじゃないか」と言われれば「そう言えば」と思い出す言葉です。
 器は、焼き物師に向かって「どうしてこんな用途のために作った」とか「なんでこんな形なんだ」と文句は言えません。どういう器をどういう風に用いて生活を整えていくかというビジョン・計画は、作り手の側にあります。
 ですから、ビジョン・計画は神にあります。そこでパウロは15節で(出エジプト 33:19(70人訳)を引用して)神は「憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」という言葉を引用して、神のビジョン・計画は「憐れみ」と「慈しみ」が実現するためのものであることを示します。

 ただ人間に与えられた「自由」と、神が「憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされる」という神の決定との関係には触れません。
 パウロはここで、人間の自由と神の決定といった理屈を論じたいのではないのです。パウロは、ローマの教会にいるユダヤキリスト者、ひいてはこれからキリスト教会に足を運んでくるユダヤ人たちに、キリストの福音を伝えたいのです。
 神は、ユダヤ人の父祖アブラハムに「信仰を義とする」救いの約束を与えられました。そして、アブラハムの約束を始め旧約の約束をイエス キリストにおいて成就されました。そして新たに、イエス キリストを信じる信仰を義とするという約束を与え、ユダヤ人のみならず神がお造りになったすべての人を救いへと招かれました。パウロは、神を信じ続けて生きてきたユダヤ人たちが、神の御心から離れてしまわず、イエス キリストの救いに与り、喜びに入れられることを願っているのです。

 ですから、救いを伝えようとして語っているということを忘れて、考えていくとずれていってしまいます。
 22-23節は、特にそのこと、救いを伝えようとしていることを忘れずに読んでいかないといけません。少し意味が分かりづらいので、少々意訳をしながらお話しします。
 「神は罪に対する怒りを示し、裁きを知らせようとしておられたのですが、神の怒りを受ける器として自ら滅びに向かって歩んでいたユダヤ人たちを、憐れみと慈しみに満ちた心で忍耐をしてくださいました。そして、神の憐れみを受ける器として選んだキリスト者たちを、救いの輝きで満たすために、神の怒りを受ける器をさえお用いになるのです。」
 怒りを受ける器とは、ユダヤ人を指しており、憐れみを受ける器の方は、キリスト者を指しています。繰り返し申し上げますが、パウロは怒りを受ける器となっているユダヤ人が、キリストを信じて救われることを願って語っています。ですから、人には「怒りの器」と「憐れみの器」の2種類あるのだ、などいう話をしているのではありません。

 人の目には、なぜ今「信じる者」と「信じない者」とがいるのか分かりません。しかし、ひとり子をさえ遣わされた神の御心は明らかです。神は、救いの完成を目指し、すべての人が信じるに至り(1テモテ 2:4)、救いに入れられることを目指して導かれています。
 パウロは、神の救いを信じています。それは、復活のイエスに出会ったからです。彼がイエスと出会ったのは、彼が迫害者だったときです。イエスの弟子たちを捕らえるための旅の途上でした。イエスを全く求めていませんでした。けれど、その自分に出会ってくださり、救いへと導いてくださいました。さらには使徒として用いてくださいました。讃美歌 502(1954年版)の3節の歌詞に「あるに甲斐なき 我をも召し、あまつ世嗣となしたまえば、たれか漏るべき 主の救いに」とありますが、まさしくパウロの心境そのものです。パウロは、自分の理性・知性、また自分の確信を遥かに超える神の救いの恵み、神の愛を知ったのです。
 パウロは同胞ユダヤ人の救いを、神の愛、その憐れみと慈しみにおいて確信しています。9章から始まったイスラエルの救いについては11章まで語られますが、その最後でパウロはこう言います。少し長いですが引用します。「福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」(11:28~36)
 怒りの器も、憐れみの器も、救いのために共に用いられ、すべての人を憐れむ神の御心が明らかになると、パウロは信じています。「この人は怒りの器だから救われない」などとこれっぽっちも考えてはいないのです。

 救いは、神の御心の内にあります。揺るぎなくあります。
 わたし自身も、神に文句を言わせてもらえるならば、言いたいことはたくさんあります。もっと愛せる人間がよかった。もっと赦せる人間でありたかった。細かいことにイライラせず、神を信じて落ち着ける人間がよかった。牧師として召されるのであれば、もう少し語学が堪能であってもよかったのじゃないか。言い出したらきりがありません。しかし、神はわたしを造ったとき「よかった」と言われます。わたしを愛していると言われます。イエス キリストはわたしにご自身の命を差し出して「これはあなたのためのわたしの体だ」と言われます。

 人間の理性や知性を超えていて、納得できないこと、理解できないことはあります。神の国で神ご自身に聞いてみたいこともあります。しかし、神はひとり子を給うほどにわたしを、わたしたちを愛しておられることははっきりと分かります。キリスト我を愛し給う、故に我ありです。
 今、神は憐れみを受ける器として、わたしたち一人ひとりを召しておられるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 どうかあなたの愛と憐れみを知ることができますように。わたしたちの愛する者の未来をあなたの救いの中に見出すことができますように。あなたが救いを願っていてくださるように、わたしたちも救いを願って仕えることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン