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ローマの信徒への手紙 4:13〜17a

2019年10月30日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 4:13〜17a(新共同訳)


 パウロは、神がアブラハムによって示された信仰の義について語ります。

 13節の「世界を受け継がせることを約束された」ということは、創世記に出てきます。12:3には「地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」とあり、17:4には「あなたは多くの国民の父となる」と言われています。そして 18:18では「アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る」と言われています。
 神が言われる「世界」とは、土地のことではなく、人のことです。「地上の氏族」「多くの国民の父」「世界のすべての国民」これこそが、神がアブラハムに相続される世界なのです。神が相続させるのは物ではなく人なのです。イエスも弟子たちに言われました。「人間をとる漁師にしよう」(マタイ 4:19、マルコ 1:17、ルカ 5:10)。

 この「世界を受け継がせる約束」は、アブラハムとその子孫に与えられた約束です。しかしそれは、律法によって引き継がれる約束ではなく、信仰の義によって引き継がれるものです。神が約束に用いられたのは、律法ではなく、信仰でした。

 「信じる」ということは、わたしたちが生きていく上で必要不可欠なものです。家族も友人も社会も、何もかも信じられないとなったら生きていけなくなってしまいます。仕事をする上でも、信用は大事です。けれど、罪ゆえに信じることのできない世の中になってしまいました。そこで神は、救いの御業によって「信じる」を造り出してくださったのです。

 約束に用いられるのが、律法ならば、信仰は必要なくなります。律法は、人を守る者と守らない者とに分けます。律法は違反の基準であり、裁きの基準となります。しかし、神がなしてくださった御業は、そういうものとは違います。エフェソの信徒への手紙にはこう書かれています。「キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。」(エフェソ 2:14, 15)キリストは、律法こそ神の民の基準だと考えている人たちに対して、神は律法によって人を二つに分けるのではなく、キリストによって二つのものを一つにし、敵意という隔ての壁を取り除かれたことを明らかにされました。

 すると一体、律法とは何なのでしょうか。それは、律法は罪の世にあって神と共に歩むための道しるべです。それによって救いを勝ち取るものではなく、救われた喜びと感謝によって重んじられるものです。律法は守られ方が一人ひとり違います。例えば、イエスは第一の掟は「愛する」ことだ(マルコ 12:29~31)と言われましたが、愛する仕方は一人ひとり違います。そして誰一人神の御心と完全に一致して守れる人はありません。誰一人、律法によって救いに至ることはできず、自分を誇ることもできません。律法は、わたしたちをキリストの贖い・救いを求めるように導くのです。かつての割礼もそうですが、律法はキリストへ、神へと思いを導くときにこそ、神の恵みとしての本来の働きをなすのです。

 だから、パウロが言うように「信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです」。しかし罪人は、信仰さえも律法に変えてしまうことがあります。「あの人の信仰は素晴らしい」「あの人は信仰熱心な人だ」などと信仰を測る基準を作り出して、信仰によって人を分けてしまうことがあります。けれど、信仰を律法にしてしまっては、恵みを失ってしまいます。恵みは恵みとして受け取ることが大事です。信仰を律法と取り替えたり、信仰を律法化しないようにとパウロは語っているのです。
 この神の恵みは、「律法に頼る者」にも、「彼(アブラハム)の信仰に従う者」にも、つまり「すべての子孫」に救いの約束を保証するのです。
 こうして神は「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」という約束を成就されたのです。アブラハムは、神の信仰という恵みによってすべての者の父となったのです。

 このように、神はアブラハムを召し出されたとき既にすべての者を信仰によって救おうとされていたのです。そして、アブラハムに与えられた約束を成就されたイエス キリストについて、聖書はこう証ししています。「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」(1ヨハネ 2:2)この世にはキリストによって贖われない罪は残されていません。そしてテトスへの手紙は「すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」(テトス 2:11)と語ります。

 神は、キリストを通して「信じる」という恵みによって、わたしたちすべての者を救いへ招き入れようとしていてくださるのです。わたしたちは信じなければならないのではなく、信じることのできる恵みへと招かれているのです。罪によって信じられなくなっているわたしたちを信じる者へと変えるために、神はキリストをお遣わしになり、神ご自身が信じられる方となってくださったのです。

 パウロは、同胞であるユダヤ人たちが、喜んで感謝してこの恵みに与れるようにと心を込めて語りかけているのです。
 わたしたちもきょう、信じる恵みに与るようにと神の招きの声を聞いたのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちに信じるという恵みを与えてくださり、信仰へと導き入れてくださいましたことを感謝します。どうかあなたとの親しき交わりの内に、信仰から信仰へと救いの完成に向かって歩みいくことができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン