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ローマの信徒への手紙 3:25〜26

2019年9月25日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 3:25〜26(新共同訳)


 人は、エデンの園で罪を犯して以来、神とは違う善悪を持ち、神と共に歩めなくなってしまいました。しかし神は、罪人を諦めることなく、共に生きるための救いの御業をなしてこられました。そしてついに、ご自身のひとり子を救い主として世に遣わされました。それがイエス キリストです。

 神は、キリストをわたしたちの罪を償う供え物とされました。
 ここ新共同訳は「罪を償う供え物」ですが、聖書協会共同訳は「贖いの座」、新改訳2017が「宥めの供え物」というように、原文は「ヒラステーリオン」という単語ですが、解釈によって「償う」「贖う」「宥め」と訳が分かれています。「償う」というのは「罪やあやまちの埋め合わせをする」という意味で「刑に服して罪を償う」などと使います。「贖う」は大辞林だと「罪の償いをする」となっていて償うとの違いが分かりません。「宥め」となると「神の罪に対する怒りをやわらげる」という意味になります。ここは、言語的にと言うよりも、文脈・パウロの言いたいことから考えて、「贖う」にしてほしいと思っています。
 贖うというのは、元々奴隷を代価を支払って買い取ることを意味していました。この場合は、神が代価としてイエス キリストを贖いの供え物とし、罪に囚われているわたしたちを罪から解放し、神ご自身のものとされた、ということです。
 神は既にキリストを遣わされる前から、罪人を贖うことを定められておられました。イザヤ 43:1にこうあります。「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」パウロはこの神の約束が、イエス キリストにおいて成就された、あなた方はキリストに贖われた、キリストのものとされた、神の子とされたことを告げているのです。

 この神の御業は、信じるということを通して受け取られるものです。つまり、イエス キリストが十字架を負われ、その命を献げられたのは、わたしたちを罪から救うためだった。神が、わたしたちを救うために、ご自身のひとり子を救い主としてお与えくださった。イエス キリストこそこのわたしの救い主だ、と信じることによって受け取る恵みなのです。

 神は、救いの御業を通して、わたしたちとの間に信じるという関係を築いてくださったのです。これこそが神の義なのです。義というのは、関係における正しさを表す言葉です。ですから神の義とは、神との正しい関係を表します。神は、イエス キリストを通して、神と人との関係は、信じるという関係が正しいとされたのです。神はそのことをキリストによって明らかにされました。25節ではこう言われています。「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」

 人は罪のために信じられない存在となってしまいました。世にある詐欺を始めとする様々な犯罪などが、人をむやみに信じてはいけないと教えています。罪は世界を信じられない世の中としてしまいました。たとえ信じ合える関係であっても、100%他者を信じることはできません。人は誰もが罪による限界を抱えているからです。
 その罪のただ中で生きているわたしたちに、神はひとり子を救い主とし、十字架を負わせるという痛みを負って、自ら信じることのできる存在となってくださいました。ご自身の御業によって、わたしたちとの間に信じるという関係を造り出してくださったのです。これを聖書は「御自分が正しい方(義なるお方)であることを明らかにし」(3:26)と言っています。

 わたしたちが義であるのではなく、義を造り出すのでもありません。神ご自身が義であり、義を造り出してくださるのです。神はご自身の御業によって、救いを成し遂げ、わたしたちが救われていると信じることができるようにしてくださったのです。このわたしをすべて知っておられる方が、わたしの弱さも欠けも愚かさも知っておられる方が、わたしを諦めず、見捨てることも見放すこともなさらず、ひとり子の命をかけ、自ら痛みを負って、わたしの罪を贖ってくださったのです。イエスは、自分を裏切る者も救いへ招かれました。自分を見捨てる者、知らないと言う者も救いへと招かれました。そして主は、わたしはあなたも招いている、と言われるのです。聖書の言葉を通して、今も聞く者すべてを招いておられます。
 今も日々積み重ねられるわたしたちの罪を一つひとつ裁き滅ぼすのではなく、御言葉を通して救いへと招き、わたしたちを忍耐をもって待っていてくださるのです。

 もう一度言います。神は救いの御業によって、自ら信じられる者となってくださいました。わたしたちを信じる関係へと導くためです。信じることのできる正しい関係を神が造り出してくださいました。神自らが、義となり、正しい関係の基となってくださいました。そして、イエスを信じる者を義とし、ご自分と正しい関係にある者としてくださったのです。神ご自身、そして神の御業が、わたしたちの義の基です。わたしたちはキリストの血により、罪贖われて、神を信じて生きる者とされました。神を信じて神の国に生きる者とされたのです。

 けれど、罪を抱えたわたしたちにとって、神を信じて生きることは、簡単ではありません。目の前に起こってくる罪の世の現実に、わたしたちは動揺させられ、信仰が揺さぶられるのです。
 しかしわたしたちが何度躓いても、「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方」(ヘブル 13:8)お方、変わることのない救い主です。イエス キリストが永遠に救い主であり続けてくださるので、わたしたちは何度でも悔い改めて、キリストの許へと立ち帰ることができるのです。わたしたちの救い、命、そして未来は、イエス キリストの許にあります。

 神はきょうもわたしたちを招いておられます。あなたの救い主イエス キリストを信じて、義とされるように、神との正しい関係の中に入れられ、神を信じ、神を喜んで生きるように、救われるようにと招いていてくださいます。


ハレルヤ


父なる神さま
 イエス キリストによりわたしたちの罪を贖い、救ってくださったことを感謝します。イエス キリストを仰ぎ見るときにだけ救いを確信することができます。あなたがわたしたちをイエス キリストと一つに結び合わせていてくださることを信じる者とさせてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン