聖書の言葉を聴きながら

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ヨハネによる福音書 2:13〜22

2019年3月17日(日) 主日礼拝  
聖書箇所:ヨハネ 2:13〜22(新共同訳)


 きょうの箇所の出来事は「宮清め」と呼ばれてきた出来事です。
 この宮清めは、4つの福音書すべてに記されています。ですが、このヨハネの記事は他の福音書と趣が異なります。例えば、他の3つの福音書には「わたしの家は・・祈りの家と呼ばれるべきである」(マルコ 11:17, マタイ 21:13, ルカ 19:46)というイザヤ書(56:7)の言葉が引用されていますが、ヨハネにはそれがありません。
 ヨハネによる福音書には、他の福音書とはまた違った伝えたいことがあるのです。きょうはそのヨハネによる福音書がわたしたちに伝えようとしていることを聞いていきたいと思います。

 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスエルサレムへ上って行かれました。
 過越祭の前にわざわざ「ユダヤ人の」と書いているので、この福音書ユダヤ人以外の人に読まれることも想定しているようです。
 過越祭とは、出エジプトを記念する祭りで、五旬祭(七週祭)、仮庵祭と共にユダヤ教の三大祭りの一つに数えられるものです。
 このヨハネによる福音書では、過越祭が3回出てきます(6:4、11:55)。ここからイエスの救い主としての活動(公生涯)が約3年間であったろうと考えられています。
 ちなみに20節には「この神殿は建てるのに四十六年もかかった」とあります。ヘロデ王が神殿の再建を始めたのが紀元前20~19年頃のことです。そうするときょうの箇所の出来事があったのは、紀元27~28年頃と思われます。そこから3年間の活動期間があって、それでイエスが十字架に掛けられたのは紀元30年頃と考えられている訳です。

 イエスは神殿に入られると、境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になりました。
 おそらくこの場所は、神殿の一番外側で異邦人も入ることのできる「異邦人の庭」と呼ばれていた場所ではないかと思われます。ここでは神殿で献げる動物たちを売っていました。神殿に来るのに、動物を連れてくるのは大変なので、重宝だったと思います。また神殿で献げる貨幣がローマの貨幣だと、そこにローマ皇帝の像が刻んであって献げ物としては不適当だと考えられ、ユダヤの貨幣と交換する両替所がありました。当然商売ですから、もうけが出るようなっていましたし、人々は観光に来たのではなく、神に献げ物をし礼拝するために来ていますから、ほとんどの人が利用するようになっていました。

 イエスはそこで、手近にあった縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒しました。一言で言えば、乱暴狼藉を働いたのです。一緒にいた弟子たちも驚いて、固まってしまったのではないかと思います。
 イエスは鳩を売る者たちに言われます。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
 商売をしている者たちにとって、神殿はお店と同じです。どうしたって売り上げが気にかかります。神と出会うための場所で神以外のものが気になってしまいます。ましてやイエスは「神と富とに仕えることはできない」(マタイ 6:24、ルカ 16:13)と教えておられます。
 日本キリスト教会においても、教会が神と出会い神との交わりを持つ場所として整えるように心がけてきました。わたしが祈りの際に献金の用意をするのを止めるようにお願いするのも、同じような理由からです。礼拝と祈りは、わたしたちが神と共に生きるために世の初めから与えられた大いなる恵みです。礼拝に出ていたらいい、献金を献げたらいいのではありません。神が求めておられるのは、わたしたち自身なのです。聖書は告げます。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ 12:1)。ですから、礼拝、そして祈りにおいて神以外のものに思いが向いてしまわないように注意しなければなりません。

 このときイエスの行動・言葉を見聞きした弟子たちは「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」という詩編(69:10)の言葉を思い起こしました。神の家を思う熱意が、神を食い尽くすというのは、わたしたちの心をざわつかせます。しかしいろいろな形で現実に起こります。
 中世の教会は、教会堂を補修しきれいにするため、新たに教会堂を建てるため、贖宥状(免罪符)と言われるものを売ってお金を集めました。この贖宥状を買えば、神の国に入ることができるなどと言って買わせたのでは、キリストへと思いを向ける必要がなくなり、キリストへと思いを向ける機会を奪ってしまいます。教会のためであっても、わたしたち罪人の熱心は、神の御心に背き、裁きの対象となることを心に留めておかなくてはなりません。神との出会い、交わりを妨げていると気づいたならば、それを手放し捨て去る覚悟が信仰には必要です。

 商売を邪魔されたユダヤ人たちは、イエスに言います。「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」。
 イエスは答えて言われます。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」。これを聞いてユダヤ人たちは言います。「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」。
 福音書はこれに対して「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」と告げています。弟子たちは、イエスが死者の中から復活されたとき、イエスがこう言われたのを思い出して、聖書とイエスの語られた言葉とを信じました。つまり、この出来事のときには理解できずに、イエスが復活されてから、イエスが救い主としての活動の初めから復活のことを語っておられたことに気づいたのです。
 そして復活を語っていたということは、ご自分のの死についても語っておられたことにも気づいたということです。前回のカナのぶどう酒の奇跡も復活の後で理解されたのです。キリストと結ばれたことを祝うぶどう酒は、キリストご自身が十字架を負い、血を流されたことによって用意されました。すなわち、キリストご自身によって祝いのぶどう酒は用意されたということも、復活の後に気づかされたのです。

 弟子たちは、復活の後でイエスの言われていたことを思い出して、聖書とイエスの語られた言葉とを信じました。ここで言う聖書とは旧約のことです。この福音書ができたときにはまだ新約は成立していませんでした。ここで聖書とイエスの言葉を信じたとあるのは、メシア=救い主を預言する旧約の言葉と、旧約の言葉の成就であるイエスの言葉を信じたということです。

 わたしたちも、弟子たちと同じようにイエスの復活から聖書の言葉を聞いています。聖書の言葉がイエスの復活に至ることを知って、わたしたちも復活、そして神の国に至ることを信じて、イエス キリストを、そして聖書全体を信じているのです。

 ただでさえ日常生活の中では、気になることが多すぎてわたしたちは神を忘れてしまいます。それなのに教会においてさえも神さま以外に思いが向いてしまうならば、どうやって神に立ち帰ればいいのでしょう。
 教会で第一にしなければならないのは、神との交わりに入り、神と共に生きることです。これがちゃんと保たれ、教会に来るすべての人がその恵みに与ることができるように、教会は整えられなければなりません。

 教会は、キリストご自身の命によって建てられ導かれます。キリストの救いに与り、キリストの救いを喜び楽しむことができるところこそ、教会なのです。
 わたしたちの教会が、キリストの恵みに満ち、神に祝福される本物の教会として育まれ導かれていきますように祈ります。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちはあなたによって清めて頂かなければならない罪を抱えています。信仰の熱心でさえ、主の叱責を受けなければならないものであることを知りました。あなたの御言葉によって導かれるのでなければ、わたしたちの信仰も善意も正しく歩むことはできません。どうか主よ、あきらめることなくわたしたちに語りかけてください。わたしたちをキリストと共に歩ませ、神の国へと導いてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン