聖書の言葉を聴きながら

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使徒行伝 2:14〜24

2017年6月4日(日)聖霊降臨節主日礼拝
聖書箇所:使徒行伝 2:14〜24(口語訳)

 

 イエスは復活されてから40日にわたって使徒たちに現れ、神の国のことを語られました(1:3)。そしてイエスは「あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」(1:5)と言われました。
 イエスが天に昇られた後「彼らはみな、婦人たち、特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に、心を合わせて、ひたすら祈をして」(1:14)いました。イエスが「わたしから聞いていた父の約束を待っているがよい」(1:4)と言われ、「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ 11:13)と教えておられたからです。
 そうして10日ほど経ち、五旬節を迎えました。五旬節の旬は、10日を表します。今も月の上旬、中旬、下旬というように使います。ですから、五旬節は50日の節目です。これは過越祭から7週間、50日目を指しています。元々のペンテコステという言葉も50番目という意味です。
 旧約では刈り入れの祭り(出エジプト23:16)や七週祭(出エジプト34:22)とも呼ばれ、小麦の収穫を祝うときでもあり、出エジプトをした後、十戒を与えられたことを覚え、律法を感謝するときでもありました。

 この五旬節の日に皆が集まっていると、一同が聖霊に満たされ、いろいろな国の言葉で語り出すという出来事が起こりました(2:1~4)。これが聖霊降臨の出来事です。
 いろんな国の言葉で語り出したのは、キリストの福音、神の救いの御業が全世界の人々に宣べ伝えられるしるしであり、キリストの弟子たちが使徒として世界に遣わされるしるしでした。使徒という言葉「アポストロス」は「派遣された者」という意味です。

 この日、エルサレムは五旬節の祝いでいろいろな国からユダヤ人が集まってきていました(2:5)。聖書は「この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた」(2:6)と記しています。そして聞いた人たちは「あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」(2:11)と言って驚きました。神の大きな働きとは、神がなしてくださった救いの御業です。しかし、中には「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」(2:13)と言ってあざ笑う人もいました。

 そこで、ペテロが他の11人の使徒と共に立ちあがり、声をあげて人々に語りかけました(2:14)。
 ペテロの主張は、この出来事はヨエルの預言が実現したということです。
 ペテロはヨエルの預言を引用して語ります(ヨエル 2:28~32、新共同訳 3:1~5)。この預言は前半と後半と2つのことを告げています。
 前半は「神がこう仰せになる。終りの時には、/わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、/若者たちは幻を見、/老人たちは夢を見るであろう。その時には、わたしの男女の僕たちにも/わたしの霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう」(2:17~18)
 ここでは、神がすべての人に霊を注ぎ、彼らは預言する、と言われています。預言は、言葉を預かると書きます。神の言葉を預かって語る、ということです。そして神の言葉を語るには、神の霊、聖霊が注がれることが必要だということです。
 神はご自身をすべての人に知らせようとされています。神に立ち帰り、神と共に生きることこそ、救いだからです。だから聖霊降臨によってそこにいたすべての人に神の御業が告げ知らされました。そしてヨエルの預言は、神はすべての人にご自身の霊を注ぎ、すべての神の民が預言する、と語ります。若者も年寄りも、男も女も、そして僕(奴隷)もです。
 わたしたちは神の僕です。神はわたしたちに神の言葉を語らせようとしておられます。神を信じる者、神に従う者は、この御心を知って「主よ、お用いください。聖霊をお注ぎください」と祈らねばなりません。「神さま、救いはください。しかし、語るのは辞退します」とはいきません。モーセは「わたしは口も重く、舌も重いのです」(出エジプト4:10)と言って神の召しを断ろうとしました。エレミヤは「わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません」(エレミヤ1:6)と言って辞退しようとしました。しかし神は、そのような言い訳をお認めにはなりませんでした。わたしたちは神の御心によって救われたのです。だから神の御心に従うのです。神はわたしたちの欠けも弱さも知っておられます。それでもわたしたちを選び、救いに招き入れてくださいました。そして神は、わたしたちをお用いになられるのです。わたしたちは、わたしたちのために御子をさえ遣わし与えてくださる神の御心と御業を信じて、自分自身を神に委ねるのです。
 そして、神と共に生きるのには、聖霊なる神が必要です。だからわたしたちは「聖霊をお注ぎください」と祈るのです。

 預言の後半は、主の裁きのときに「主の名を呼び求める者はみな救われるであろう」(2:21)ということです。
 4:12では「この人(イエス キリスト)による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていない」と言われ、ローマ 10:17では「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来る」と言われています。
 ペテロもここでイエスのことを語り始めます。神がイエスを遣わされたこと、神の民であるあなたがたがイエスを十字架につけて殺したこと、しかし神はイエスを復活させられたことを語ります。
 そして今日に至るまで、教会はイエス キリストを宣べ伝えています。「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない」(1コリント12:3)と言われているように、聖霊によってキリストと出会わせていただき、信仰を与えていただいて、教会はキリストを宣べ伝え、神の救いの御業を告げ知らせてきました。
 聖書は「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる」(1テモテ2:4)と告げています。わたしたちは、この神の御心がなることを願っています。そして神は、御心なすためにすべての人に聖霊を注がれます。わたしたちは、神の御心と御業を信じて、聖霊に満たされ導かれていくことを祈り求めていきましょう。

ハレルヤ