聖書の言葉を聴きながら

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エペソ人への手紙 2:11〜22

2018年5月20日(日)主日礼拝  聖霊降臨節
聖書箇所:エペソ人への手紙 2:11~22(口語訳)

 

 きょうは聖霊降臨節ペンテコステです。ペンテコステは「50番目」を意味する言葉で、キリストの復活から50日目を表します。使徒行伝 2:1〜4は「五旬節の日がきて・・一同は聖霊に満たされ」とあります。
 この五旬節は、過越の第2日の49日(7週間)後に始まる約3日間の祭りで「七週の祭り」とも言われます。出エジプトの49日後にシナイ山で神が律法を与えたことを記念し、また春の収穫を感謝する祭りです。
 この五旬節に聖霊降臨の出来事が起こりました。一緒に祈っていた弟子たちに、聖霊が降り、福音宣教が始まりました。そのことから聖霊降臨節は、教会の誕生日とも言われます。

 きょう読みましたエペソ人への手紙では、聖霊の働きを「一つにする」と表しています。14節では「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし」と言い、15節では「彼(キリスト)にあって、二つのものを一人の新しい人に造り替え」と言っています。16節は「十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ」と語ります。そして18節では「彼(キリスト)によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができる」と言われています。
 ここで「二つのもの」というのは、ユダヤ人でキリストを信じたユダヤキリスト者と、異邦人で信仰を持った異邦人キリスト者を指します。旧約の時代は、神の民イスラエルと真の神を知らぬ異邦人の二つに人間を分けていましたが、その二つのものがキリストにあって一つとされる、そういう時が来て、キリストの業によって一つとされ、共に神の御許に近づいていくということを語っているところです。

 聖霊の働きは、結び合わせる働きです。キリストとわたしたちを結び合わせ、キリストの救いの恵みでわたしたちを満たしてくださいます。罪によってバラバラだったわたしたちを主にある兄弟姉妹として神の家族としてくださいます。
 19節以下でこう言われます。「あなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。」聖霊なる神が働かれるとき、わたしたちは救いによる新たな絆を与えられ、神の家族とされるのです。
 「またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、 そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。」聖霊なる神の働きによって、わたしたち自身が神の住まいとされ、神と共に生きる者、神を証しする者とされるのです。一人ひとりの信仰も、教会を建て上げるのも聖霊なる神の働きなのです。

 わたしたちが今キリストを信じているのも、教会が建てられているのも、聖霊なる神が働いてくださった結果です。わたしたちは聖霊を受けて今、ここにキリスト者としているのです。

 聖書には異言という言葉があります。普段とは異なる言葉を語って神を讃美する、証しする状態を指します。この異言を語るのが聖霊を受けているしるしと考えることがあります。確かに聖書が語る異言を語っている場合には、聖霊を受けている状態ですが、異言を語っている状態にのみ聖霊を結びつけて考えるのは間違いです。
 聖霊を語るとき、よく引用しますように1コリント 12:3で「聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」ということができない」と言われているように、キリストを告白すること自体、聖霊が注がれ、聖霊に導かれている証しです。
 自分が満足するような大きな変化がないと聖霊が働いていない、神が業をなしていてくださらないと考えてしまうと、神の働き、導きに気づけないままになってしまいます。時として神の導きは、わたしたちが願っているのとは違うかたちでなされることがあります。それはわたしたちの願いが神の御心と違っている、わたしたちを知っておられる神が導こうとされる方向が自分の思いとは違う、ということがあるからです。ですから、自分が満足するような変化、しかも自分が聖霊を受けたから大きく変わったと思えるような変化がないと、聖霊が注がれていないとか、神が御業をなしていてくださらないと捉えてしまうと、神の導き、神の働きに気づけないまま、歩むことになってしまいます。

 聖書に示されて、聖霊を受けて今自分はキリストを信じているという事実を確認し、神の恵みを覚えること、神に望みを置いて祈ることが大切です。
 わたしたちはこれからも父なる神に聖霊を注いでくださるように祈っていかねばなりません。聖霊を受けてキリストを信じたから、もう聖霊は入らないというのではありません。信仰を持って神と共に生きるというのは、新しい命に生きるということです。わたしたちが今この世の命でもそうであるように、わたしたちはもう息をする必要がない、食べる必要がない、眠る必要がないなどということはありません。生きている限り、呼吸をするし、食べるし、眠るのです。それが生きているということです。ですから、わたしたちは神と共に生きていくというときに、絶えず神が聖霊を注いでわたしたちを捉え導いてくださるように、祈っていくことが大切です。イエスは教えてくださいました。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。・・天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」(ルカ 11:9, 13)

 イエスを見捨てて逃げた弟子たちが、福音宣教という神の御業に仕え始めたのは、祈りつつ聖霊を待っていたときでした。この日本においても、教会が始まったのは、新年の祈祷会のときでした。今、日本キリスト教会、そしてわたしたちの教会に必要なのは、祈りの群れになるということです。
 今、わたしたちの教会は罪に傾いて、礼拝を守り、祈りを合わせることよりも、こういうことをしたら、こういう取り組みをしたら、人が来るのではないだろうか、教会がもっと魅力的になるのではないだろうかと、神が示されるものとは違う仕方で教会を建てようとしがちです。しかしそれでは、決して教会は建ちません。教会は神のものです。わたしたちのものではありません。わたしたちの好みやわたしたちの善意で教会は建ちません。神の民、神の群れであっても、イスラエル王国は滅びました。教会が裁かれ滅びる前に、わたしたちは神の御心に立ち帰り、神が聖霊で教会を清め、満たしてくださるように、祈りつつ歩まなければなりません。

 わたしたちの救いを計画してくださったのは父なる神です。わたしたちの救いのために犠牲を献げてくださったのは、子なる神イエス キリストです。神がわたしたちの救いとなってくださったのを教え、その恵みに与らせてくださったのは聖霊なる神です。わたしたちの救いに必要なのは、神ご自身です。そして神は、父なる神、子なる神、聖霊なる神、そのすべてをわたしたちのために示し与えてくださいます。わたしたちに深く関わり、わたしたちを救い出し、新しい命、永遠の命に与らせようとしてくださっています。
 その三位一体の神に出会えるように、神はご自身の教会を建ててくださいました。聖霊なる神がわたしたちの教会を満たし、ここに集う者が神と出会い、神を知り、神と結び合わされて、神の恵みに満たされていくように、祈りつつ歩んでまいりましょう。

 

ハレルヤ