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「おびただしい証人の群れに囲まれて」(ヘブライ人への手紙11:39~12:2)

  「おびただしい証人の群れに囲まれて」
 
2022年11月20日(日)聖霊降臨日後第24主日【逝去者記念礼拝】
聖書箇所:ヘブライ人への手紙 11章39節〜12章2節
 
 わたしたちはきょう、先に召された兄弟姉妹を覚えて礼拝を守っています。

 わたしたちの信仰は伝えられたものです。神と共に歩み、キリストに従って生きた信仰の先輩たちから伝承されたものです。

 ヘブライ人への手紙 11章1節では「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」だと言っています。望んでいる事柄とは「救いの完成」であり、「神の国の到来」です。それは、まだ誰も見たことのないものです。しかし、それを、イエス キリストの十字架と復活、その生涯において確認するのです。キリストと出会い、神を知ったがゆえに、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認するのです。目に見えないものを信仰の目で見て、未来の事柄を信仰によって、今のものとして経験するのです。
キリストを信じた者たちは、目に見える世界よりもはるかに大きな世界に生き、今という時間からも解き放たれて生きたのです。

 11章39節には信仰を持って生きた人たちはすべて「その信仰のゆえに神に認められた」とあります。口語訳聖書では「信仰によってあかしされた」となっています。この「あかしされた」というのは、本来「名前が記録される」という意味です。つまり、信仰の先輩たちは、信仰によって、その名が記録された、ということを意味しています。神の民の名前が、
記されている命の書に、その名が刻まれたことを示しています。神がその名を、救いの中に刻み込んでくださるのです。

 ただし、彼らは救いの約束の完成をこの世において受けることはありませんでした。それぞれに与えられた生涯を全うし、地上の生涯を終えました。しかし、彼らは「目に見えない方を見ているようにして」(11:27)神と共にこの地上の歩みを全うしたのです。

 神は、すべての信仰者のために、ご自身のひとり子イエス キリストを世に遣わすという「更によいものを備えて」くださいました。1970年に発行されたNew English Bible(NEB、新英語聖書)では、「わたしたちを心にかけ、神はさらに良い計画をあらかじめ立てておられたので、先に召された信仰の先輩たちは、これから召されていくわたしたちと連れ立って、初めて完成に至る」と述べています。

 神のひとり子イエス キリストは、自分自身を神に捧げる大祭司として、この世に来られました。イエス キリストは、ご自分の命をもって、わたしたち一人ひとりの救いを獲得してくださいました。すべての信仰者は、キリストへとつながり、キリストによって救われ、完成へと至るのです。キリストこそ、わたしたちの信仰の始まりであり、信仰の目標です。
信仰の創始者であり、完成者、それが、イエス キリストなのです。

 神はこのように、ひとり子イエス キリストにおいて、すべての信仰者を救いへと導かれました。神はキリストにおいて、わたしたちに対する愛、救いの完成、永遠の命、そして、神の国を明らかにされました。

 そして今、わたしたちは、キリストの救いに入れられ、救いを証しした多くの人を思い起こすことができます。まさに、12章1節で語るように、「わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれているの」です。

 証人、証し人という言葉は、当時は、殉教者を指す言葉でした。そこには、キリストと共に生きたという思いが込められています。証し人たちは、復活の主を見上げて、苦しみも、そして死も含めて、与えられた生涯を全うしました。イエス キリストにこそ、救いがあり、希望があり、命があることを、自ら証しをして、生涯を全うしたのです。

 聖書は、わたしたちにこう勧めます。12章の1節と2節「わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪とをかなぐり捨てて、自分に定められている競走を、忍耐強く走りぬこうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」。

 聖書は、わたしたちの人生を忍耐強く走り抜かねばならない競争に例えています。そして、走り抜くための大切な点を指摘しています。それは、イエス キリストという目標がはっきりしたならば、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、目標を目指して走るのです。

 わたしたちは、いろいろなものを握りしめて、抱え込んで、生きています。しかし、どれ1つとして死を越えて、持っていくことはできません。この世に生まれるとき、何も持たないで、ただ命のみが、与えられました。そして、この世を去る時、何も持たずに、与えられた命を、主にお返しして、主の御手に受け止めていただくのです。
この世において、良いもの、価値あるものとされる名誉や誇りでさえ、イエスに向かって走るのを妨げる重荷や絡みつく罪にしかなりません。

 信仰者が証しするのは、キリストに救われ、支えられて、キリストと共に生きたということです。立派な人生を送りましたということでは決してありません。召されたすべての信仰者が死を迎えるとき、何が希望であり、支えとなるのでしょうか。それは、イエス キリストが、わたしの救い主となってくださったということ。イエス キリストが、ご自分の命さえも、惜しまず、わたしの救い主となってくださったということ。イエス キリストがご自分の命を献げて、わたしの救い主となって、わたしを罪と死から救ってくださったということです。

 そのために、イエス キリストご自身、自らの前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになられたのです。神のままで、栄光に包まれることをお選びにならないで、わたしたちの救いのために、人となって世に来られました。わたしたちが負うべき裁きを、ご自分の命によって、負ってくださいました。そして、死を打ち破って、復活し、わたしたちが神の御許へと帰る道を開いてくださったのです。

 このイエス キリストに救いがあります。すべての信仰者は、この方によって救われました。そして、この方は、神が造られたすべてのものの救いのために、わたしたちのためばかりではなく、全世界の救いのためにその命を献げてくださいました(1ヨハネ 2:2)。
 

 ですから、わたしたちは、先に召された、愛する者たちを、イエス キリストにあって、確かな救いの希望の内に、思い起こすことができるのです。

 私たちに命を与えてくださった神が、私たちの死を良しとしないで、ひとり子の命を差し出してまで、お救いくださったのです。この神によって、天へと先に召されたのです。先に召された、愛する一人ひとりが、今、神の救いの内にあることを、イエス キリストが保証し、確かなものとしてくださっています。

 そして、わたしたちも、先に召され、救いに入れられた者たちの後に続くのです。信仰の創始者また完成者であるイエスをしっかりと見つめて生きるのです。すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、キリストの愛に包まれているこの命、この人生を、キリストと共に生きるのです。
 
  祈ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

ホセア書9:1~9

預言者ホセアのこの言葉は、秋の収穫祭である仮庵の祭の際に語られた言葉です。仮庵の祭はイスラエルの三大祭の一つで、そのうちで最も盛大に祝われた祭です。チスリの月の15日、すなわち秋分の日に近い満月の日から1週間行われた祭りです。当時イスラエルは春と秋と2回新年を迎えていたのですが、この仮庵の祭は、秋の収穫を終わり、新しい年に入ってから守る祭で、人々はぶどう・いちじくなどの収穫をし、感謝をもって年を終わり、新しい年を迎えるのです。人々は田畑に仮小屋を作り、そこで寝起きし、収穫の感謝の供え物をしました。この収穫感謝に歴史的意義が加わり、荒れ野での40年にわたる天幕の生活と結びついて、「仮庵の祭」と呼ばれるようになりました。この祭の最後の日には、聖書日課の最後の段落である申命記33・34章が朗読され、この日は「律法の喜び」と呼ばれ、読み終えられた律法の巻物は直ちに巻き返され、次の新しい年度の朗読に備えました。新約では、ヨハネによる福音書7:2に仮庵の祭が記されていますが、この時には荒れ野で岩から湧き出した水をかたどり、シロアムの池の水を汲んで毎日祭壇に注ぐ行事が行われていました。また神殿の婦人の庭に4つの高い燭台を立て、荒れ野でイスラエルを導いた火の柱を記念していました。

 

さてホセアはこのイスラエル最大の祭のさなかに預言したわけですが、この時多くの巡礼者が全土から喜ばしい祭のためにベテルあるいはサマリアの聖所に集まってきました。集まった人々の喜びの歌・感謝の歌を遮って、祭の喜びの杯に苦い一滴を注ぐように、預言者の厳粛な非難の言葉が告げられたのです。このような場面において、個人が大衆に、その最も神聖としている感情や希望を傷つけるような言葉をもって対抗していくには、どれほど強い勇気を必要とするか、ということを考えさせられます。預言者が嘲りと迫害の中を歩んだのも当然のことと言えます。

ホセアが「喜ぶな」と命じたのは、人々の喜びが神に対する不信仰から生まれたものだったからです。ホセアは、イスラエルの民が行う祭を批判して、神に対する祭ではないと非難します。イスラエルは豊作の神バアルに擦り寄り、豊かさを第一に約束する偶像を愛しました。ホセアにしてみれば、イスラエルが献げる収穫物は淫行の報酬とも言うべきものでした。イスラエルは献げ物さえ持ってくれば神に顧みられると考えていたようですが、それはあり得ないことでした。

勘違いしてしまうような豊かな時代があった。丁度今のわたしたちのように。

預言者は偶像礼拝を認めません。もし神との関係がイスラエルの不信仰によって壊され、その結果、契約の真実に支えられた祭ができなくなれば、存在意義を失った神の民は滅亡へと向かうばかりです。彼らが求めた豊かさもいつしか離れ去っていくでしょう。どれほどバアルを礼拝したとしても、彼らが頼りとしたものは応えてくれず、必要としたものは手から去り、そして、神の救いの御業の結果与えられた約束の地をも離れ去ることになるでしょう。まるでエデンの園で罪を犯したアダムとエバエデンの園を追われたように。

 

本当に大事なものを捨ててしまうとはどういうことなのか。どんなことになってしまうのか分かっているのか。

4節にそのことが記されている。4節はヘブライ語本文の破損があり、どの聖書を見てもそれぞれ訳が違うほど本文の確定が難しいところ。新共同訳(4−5節)「主にぶどう酒を献げることもできず、いけにえを献げても、受け入れられない。彼らの食べ物は偶像に献げられたパンだ。それを食べる者は皆、汚れる。彼らのパンは自分の欲望のためだ。それを主の神殿にもたらしてはならない。祝いの日、主の祭の日にお前たちはどうするつもりか。」口語訳は1行あけてあるところがあるが、ヘブライ語本文はそうはなっていない。

 

今、人々は祭を喜んでいるが、本当に大事なものを捨ててしまうとわたしたちは祝うということができなくなってしまう。どの民族であっても、祝い事・祭のない民はいない。人は生きることを喜びたい、感謝したい。しかし本当に大事なものを捨ててしまうと、人が生きる上で欠かすことのできなかった祭ができなくなってしまう。たとえ神のもとを去り、偶像に寄りすがっても、そこには希望や喜びや感謝はない。6節「見よ、彼らが滅びを逃れても、エジプトが彼らを集め、メンフィスが葬る。彼らの銀も宝物もいらくさに覆われ、天幕には茨がはびこる。」(新共同訳)

 

神を偽り、神の言を軽んじる民に審きが下されます。

7−9節(新共同訳)「裁きの日が来た。決裁の日が来た。イスラエルよ、知れ。お前の不義は甚だしく、敵意が激しいので、預言者は愚か者とされ、霊の人は狂う。預言者はわが神と共にあるが、エフライムは彼を待ち伏せて、その行く道のどこにも鳥を取る者の罠を仕掛け、その神の家を敵意で満たす。ギブアの日々のように、彼らの堕落は根深く、主は彼らの不義に心を留め、その罪を裁かれる。」

神の民は神に従うのではなく、自分たちのあり方を非難する預言者を葬り去ろうとする。預言者は愚か者・狂人とされ、預言者に敵対し、神に敵対する敵意が国を覆う。神の愛で満たされるはずの国が、神に対する敵意で満ちるとは悲しむべき出来事です。神の裁きによってしか罪から離れることができないとは。

 

しかし、これで終わってしまうのではない。神はこの罪人のために御子を救い主として遣わされた。淫行の価しか神のもとに持ってこれない罪人のために、完全な贖いの供え物として御子を差し出された。献げられない民に代わって神が献げてくださった。聖晩餐はその神の救いの御業を証しするもの。わたしたちに対する神の愛を証しするもの。わたしたちを喜びで満たす主の祝宴。神は「これを受け取って喜べ」と聖晩餐を備えてくださった。

罪のままでは喜ぶことができない。神から離れたままで喜ぶことはできない。神のもとにこそわたしたちの本当の喜び・感謝・祭がある。

 

厳しい預言者の言葉を支え続けたのは、限りない神の愛である。

 

 

 

 

 

 

「よろしい、清くなれ」(マルコによる福音書1:40~45)

エスガリラヤ中の会堂に行き,宣教し,悪霊を追い出している中で,重い皮膚病を患っている人がイエスのもとにやってきました。
ここに重い皮膚病と出てきますが,新共同訳聖書も最初の版はらい病と訳しています。現在はハンセン病と呼ばれている病名です。皆さんの聖書も人によってはらい病となっているものがあると思います。教えて頂きましたところによれば,1997年から新約の中で使われているらい病が重い皮膚病に訳し変えられたそうです。らい病という病名を使うとこの病気に対する偏見や差別を容認してしまうという意見が出るようになり,聖書を出版している日本聖書協会に要望が寄せられたからだそうです。
わたし自身は差別する言葉だと言って言葉をなくしていくのには反対です。言葉をなくしても心が変わらなければ差別はなくなりません。かえって新しい差別語を産み出したり,見えにくい差別を助長することになるのではないかと思います。
そしてもう一つ大事なことは,イエス キリストはわたしたちを罪から救うために罪の世のただ中に来られたのだということです。様々な配慮によって罪の現実を薄めてしまうような訳に変えてしまうのは,救いの恵みをも薄めてしまうことになりかねません。聖書には様々な人間の罪が描かれています。それをいろいろと配慮して訳を変えたり,印象を薄めたり,説教に取り上げるのを止めてしまったりしていては,罪に対してもそこから救われるということに対しても底の浅い理解しかもてなくなってしまいます。キリストが本当に罪から救ってくださることを知るには,本当の罪を知らなくてはなりません。
ただし,聖書学的によく検証してより良い訳に変えることは必要なことです。そして,そのような主張をもって重い皮膚病の訳が良いと言われる方もいます。この重い皮膚病という言葉をめぐっては今も議論があり,わたし自身には学的に論じる十分な知識がないので,現在の新共同訳の重い皮膚病という言葉で話をしたいと思います。
さて,皮膚病についてはレビ記13−14章に規定が記されています。ここでは衣服や家屋に生じるカビについても言及されています。重い皮膚病にかかっている人についてはこう書かれています。「衣服を裂き,髪をほどき,口ひげを覆い,「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり,その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」(13:45−46)皮膚病はその症状が目で見えたところから恐れを生じさせました。そして人々から離れて暮らしていかねばなりませんでした。もちろん神殿に行くこともできません。
エスのところへ来た人は,大きな決断をして出てきました。彼は町中に入ることはできませんから,おそらく食事などを届けてくれる家族に助けられて町の外でイエスを待っていたのでしょう。彼は人が知らずに彼に触れて汚れを受けることがないように「わたしは汚れた者です」と離れた所から言わなければなりませんでした。その彼がイエスの目の前に出てきたのです。律法に違反したかどで処罰されるかもしれません。大騒ぎとなり,石で打たれて死ぬかもしれない。しかし,彼はイエスを信じました。「御心ならば清くすることができる」と信じました。どれほどの汚れも,どのような病も,どんな掟もイエスの前に立ちはだかることはできない,イエスの愛を妨げえないと信じました。もちろん彼はイエスに会ったことなどありません。食事を届けてくれる者たちからイエスの話を聞いただけです。けれど彼は見ずして信じました。イエスの話はまさしく福音,良き知らせでした。彼は決断しました。イエスの前に進み出る決心をしました。そしてイエスのところに来てひざまずいて願い,「御心ならば,わたしを清くすることがおできになります」と言ったのです。
彼は「御心ならば」と言いました。彼は病と孤独の中で何度自分の存在の意味を問うたでしょう。その中で彼は,自分のものであって自分のものではない命を知ったのではないでしょうか。自分に与えられた命。それは神ご自身のものであり,神の御心によって与えられ導かれるものです。だから彼は「御心ならば」と言ったのではないでしょうか。
彼は「清くすることがおできになります」と言いました。「癒すことがおできになります」ではなく,「清くすることがおできになります」と言いました。聖書において「汚れ」というのは,わたしたちが普段使っている意味とは違い,関係を築けない状態を指します。彼はこの皮膚病のために隣人との関係を築くことができない,神殿にも行けず,神との関係も失われているような状態にありました。もちろん,清くするとは病気が癒されることを意味しています。けれど,彼の言葉には何が本当につらく苦しいのかが表れているように思います。
彼の言葉を聞いて,イエスは深く憐れまれました。神のかたちに創造され,神の愛によって生きるはずの人間が,罪がもたらした病の故に関係を築けず孤独の中に生きている。そして命がけの決断をして自分の前にやってきた彼を見て,イエスは激しく心を動かされました。そして深く憐れみ,手を差し伸べてその人に触れ,「よろしい。清くなれ」と言われたのです。イエスは彼に手を差し伸べて触れました。自分で大声をあげて「わたしは汚れた者です」と言って人を遠ざけなければならない彼にイエスは手を差し伸べて触れました。言葉だけでも癒すことはおできになりますし,そういう癒しの例も聖書には記されています。しかし,イエスは触れました。誰も触れられない,触れてはならない彼にイエスは触れたのです。彼が信じたように,汚れも病も掟もイエスを妨げることはありませんでした。
ここで「よろしい」と訳されている言葉は「わたしは願う。わたしはそれを望んでいる。」という言葉です。イエスが彼との関係を築こうとする意志が,彼を求めて止まない愛が彼を清めるのです。たちまち重い皮膚病は去り,その人は清くなりました。
彼の喜びはどれほどであったでしょうか。計り知ることはできません。ところが,イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし,厳しく注意してこう言われたのです。「だれにも,何も話さないように気をつけなさい。ただ,行って祭司に体を見せ,モーセが定めたものを清めのために献げて,人々に証明しなさい。」彼は癒しを喜びました。けれども,癒しにだけ心奪われてしまうと,イエスは単に癒しの人になってしまいますし,何を願って清めてくださったのかを見失ってしまいます。イエスは彼が律法に従って清めの儀式を行い,社会に復帰し人々との関係を築くように命じられたのです。まさにイエスによって彼は清められたのです。
ただ,人々がイエスを癒しの人,奇跡の人として理解してしまわないように黙っていなさいと命じられました。しかし,彼はそこを立ち去ると,大いにこの出来事を人々に告げ,言い広め始めました。彼はこの喜びを語らずにはいられませんでした。イエスを信じ,イエスを喜ぶ者でもイエスの思いとはずれた従い方をしてしまう。罪あるわたしたちには仕方ないことなのかもしれません。
けれど,そのせいでイエスはもはや公然と町に入ることができなくなり,町の外の人のいない所にいなければなりませんでした。町の外の人のいない所にいなければならなかった彼の重荷をイエスが代わって負ってくださったかのようです。彼は町の中へと帰り,イエスは出て行かねばなりませんでした。
しかし,それでも人々は四方からイエスのところに集まって来ました。イエスが出て行かれたことにより,隔てていたものが取り除かれ,人々がイエスのもとへと向かうのです。わたしたちのために人となって世に来られたイエス,激しく心動かしてわたしたちの清めを願ってくださるイエス,この主の御心によってわたしたちは救いへと入れられるのです。
教会はキリストに従い,病める人,世から隔絶され関係を築けない人と共に歩もうとしてきました。癒しの賜物を与えられたものは癒しの業に仕えました。けれど,すべての人が癒されたわけではありません。パウロのように重荷を負うことを求められた人もいました。しかし,教会は主にあって共に歩みました。要となるのは,主と共にあるということです。わたしたち自身ではなく,主ご自身が清めてくださるからです。わたしたちは今も生きて働かれる主を見ているでしょうか。わたしたちに先立ち行かれる主と共に歩んでいるでしょうか。わたしたちがすべての業に先立ってしなければならないのは,重い皮膚病を患っていた彼がすべてを抱えてイエスの前に進み出たように,わたしたちも主が憐れみ御手を差し伸べてくださることを信じて,深く憐れんでくださることを信じて,すべてを抱えてイエス キリストの前に進み出て願うことです。わたしたちのすべての恵みはイエス・キリストから来るからです。そのとき,わたしたちはイエスの御業によって喜ぶのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

ホセア書8:1〜14

以下は、今日、代読して頂いた元々の説教原稿

 

ホセアはあたかも見張りのごとく、迫りつつある危険を知らせるため、主の家の上に警報のラッパを吹き鳴らせとの命令を受けている。侵入してくる敵に関する恐るべき知らせを広めること、それが目に見えて明らかでないとき、それは困難な任務ですが、預言者はそのために神に呼び出されたのです。

しかし、神と共にある者にとっては危機の到来は明らかでした。それは神の民イスラエルが、神の契約を破棄し、神の戒めをないがしろにしたためでした。

悲しいことに、神に対して不誠実になる者はどんどん偽りの中に陥ってしまいます。

イスラエルは繰り返し神を知っていることを保証しました。「我が神よ、わたしたちはあなたを知っている。わたしたちはイスラエルなのだから」。確かにイスラエルは神を知っていました。しかし、彼らの神への告白は、神への応答は、『この民は、口でわたしに近づき、唇でわたしを敬うが、心はわたしから遠く離れている。』」(イザヤ29:13)というようなものでした。

神を知っているということは、信心深い言葉で言い表す口先の告白ではありません。その言葉が出来事となり、無からすべてを創り出された真実な神の言葉に対する応答は、口先だけではない、出来事を伴う真実な言葉でなくてはなりません。

けれどもイスラエルは、預言者の再三の言葉にもかかわらず、「善を退け」続けました。イスラエル自らがその存在根拠である神との契約を破り(6:7参照)、契約の義務である神の命令を守らず、そのため神の助けを失ってしまったのです。

 

皆さんは、神を知っておられるでしょうか。

 

イスラエルは意図的に自らの指導者を求め、神の指導を拒みました。人々は彼らの真の王が神であることを忘れ、より良い時代を約束する人間の指導者のうちに救いを求めました。しかし、神の真実が忘れ去られているときにその指導者が選ばれるなら、解放への道を指し示すものは何もなくなるでしょう。

彼らは人間的な考えから王を選び、そして暗殺し、神が知らないと言われるとおり神の意志・認可を全く得ませんでした。

王国は全く人間的政治的な権力手段に成り下がり、それはその権威を自分自身が権力を握ることで持っており、旧約の王国観に即したように、神の選びにより神に対する責任において権威を持つものではありませんでした。

神を無視し、自らが力を持ち、権威を持とうとする人間は、自分の願いをかなえてくれる偶像を作り出します。イスラエルでも、カナンのバアル宗教をまねて生殖における生命力の象徴としての動物の像による神の表現が行われていました。ヤラベアム1世という王様は、ベテルとダンの2つの聖所で動物の像を置いており、それは木に金属をかぶせて作られていました。

彼らは目に見えぬ全能の神に対する信仰を、目に見える力のない一塊の金属の前での空虚な礼拝に置き換えてしまいました。

彼らの行為は、現代においてもよく見ることのできるものです。子牛は人間の手で作りうるものであり、技術の産物でした。今日において、どの時代にもましてわたしたちは技術に希望を託しています。すなわち、人類は世界に技術によって救済を打ち立てられるだろうという空しい希望を。

しかし8:5を換言すれば、神はこう言われています。「わたしはあなたたちの技術を忌み嫌う」。そこには何の救いもないのです。偶像は人の手になるかりそめの物であって、壊れてちりぢりになってしまうものです。しかし、神はこのような人間の罪深い自分勝手な願いから生じた偶像崇拝とは相容れるところなく対立しているのです。

この世のものは、神を知り、身を低くし、神と人と共に生きる救いの御業のために仕え、神の栄光を表すとき初めてわたしたちの喜びとなるのです。

 

この世の力を頼みとするイスラエルを、神は彼らが頼りとした外国の力によって打ち砕かれます。7節では、人間的な力に依存することのむなしさを「風」で、その結果アッシリアによる破滅を招くことを「つむじ風」で表しています。空しいものの上に築かれたものは、無へと帰し、破滅を自らの内に秘めています。

イスラエルは頼りとしたものによって食い尽くされ、飲まれてしまいます。諸国を右往左往して助力を求め、しかもどこからも相手にされず、見捨てられてしまいます。イスラエルは、誰も気にも留めない、無価値な器のようになってしまいます。

イスラエルは群れから離れた野ろばのように打ち捨てられて独り立っています。しかし、自分の姿が分からずにいます。イスラエルはそれでもなお金で娼婦の偽りの愛を求める者のように、彼らは同盟者たる外国諸国に保護を求めるのです。彼らは神との契約を忘れ、その条件が保護を申し出ていると思われると、相手と時期を問わず、諸外国と契約をおよび盟約を結びました。しかし神の審判の危機に瀕している国家に対して、他のいかなる国々もいかなる同盟者も救いの手を差し出すことはできないのです。

 

人類の歴史を通じて、人間の力の究極の表現だと考えられる数々の大帝国が存在しました。アッシリアバビロニア、ローマ、大英帝国アメリカ合衆国ソビエト連邦など。しかし、敵対的なものであれ、友好的なものであれ、どのような帝国の力も人類が切望する最終的な保護と救済を与えることはできません。

 

ホセアはその言葉を激しく打ちつけ切りつけることによって、神以外の偽りの援助に対する希望をなぎ払っているのです。

 

イスラエルが造った祭壇よりもはるかに多くの教え(律法)を神はお与えくださいましたが、不信仰のイスラエルにはそれを正しく受け入れることができませんでした。祭儀を行うということが目的となり、自己満足のために祭儀が行われるとき、民は、神の戒めを知っており、それを所有しているにも関わらず、神のことを理解しないようになり、また神の意思表明を自分たちとは無関係なことと感じるようになってしまうのです。

 

皆さんはきょうの御言葉を自分に向けて語られた神の言葉と思っておられるでしょうか。それとも、きょうはあまりおもしろくないところだなあ、と思っておられるでしょうか。

 

彼らは多くのいけにえを携えてきて、それを『神の供え物』と呼びます。しかし、イスラエルのいけにえの場所や祭司は違法なものであるので、主にとってみればそれらは単なる『肉』にすぎません。

13節にある『彼らは食べる』、これが彼らの主な関心事でした。彼らの目的は罪の赦しを得ることでも、神への感謝を表すことでもなく、食欲を満たし、欲望を満たすことだったのです。

イスラエルの献げるいけにえを拒み、「主は彼らを喜ばれない」のです。罪の赦しを得て、神に再び罪を覚えないようにしていただく犠牲が、かえって「主は彼らの不義に心を留め、その罪を裁かれる」ものとなるのです。何と皮肉なことでしょうか。彼らはついにはエジプトの奴隷の状態へと帰ることになってしまうのです。

 

神の民は造り主を忘れて、人の力・物質の力に信頼を置くようになりました。神はそれらを滅ぼして、神の力強さと人や物の無力を教えようとしておられます。

宮殿も城もイスラエルにとって、自分たちが神の被造物であることを忘れ、自己の世界で自らを神としようとする、人間の誇りと高ぶりを表現するものでした(創世記11:1−9参照)。

しかし人間はどんなことをしても、神の前から逃げ去ることはできないのです。人間であるとは、ホセアにとっては創造者に依存して生きることでありました(創世記3:11)。彼はその時代の人間の意識の内に神を忘れた様を見ていたのである。このような人間の高ぶりと神との間にある対立と、そして被造物のその創造者に対する義務を知らないで生きているために、根本的に「神無し」である文化に迫っている破滅とが、示されているのである。

 

イスラエルはその造り主を忘れた」

自分たちの造り主を忘れた民は、その造り主が常に与えてくれたもの、すなわち保護と救済を他のところに探し求めました。彼らは数多くの誤った道をたどって、失ったものを追いかけました。ある道は彼らを造り主からさらに遠く引き離し、ある道は彼らをさらに悲惨な方へと導きました。しかし躓きは内部に存在したのです。

 

わたしたちは今一度、神の前で自分に問いかけてみなければなりません。わたしたちはどんな幸せを思い描いて、どんな人生を求めて生きているのでしょうか。
神はわたしたちに問いかけられます。「彼らはいつになればイスラエルで、罪なき者となるであろうか。」(5節)神はわたしたちの答えを待っておられます。

 

 

祈り

父なる神様。わたしたちの危機を知らせるラッパが鳴り響いているのに、自分の思いを追い求めるわたしたちはその音を聞くことがありません。わたしたちの落ちつかない揺れ動く思いをあなたの前で静めなければ、あなたの声を聞くことができません。どうかわたしたちがあなたの声を聞くことができますように。あなたの声を聞き流してしまうことがありませんように。わたしたちの救いのためにすべてのことを配慮してくださるあなたが、わたしたちの救いのために語られた御言葉からあなたの御旨を知ることができますように。どうぞわたしたちを立ち返らせ、罪なき者としてください。
主イエス=キリストの御名によって祈ります。アーメン

 

長老が、この説教を補って、素晴らしい説教に仕上げて下さった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「神の国の福音を宣べ伝える」

神の国の福音を宣べ伝える」

 

 2022年10月9日(日) 聖霊降臨日後第18主日

聖書箇所:マルコによる福音書  1章35節〜39節

 

 21節から記されているカファルナウムの会堂でのイエスの教えと癒しの評判は瞬く間に近隣の人々に広まりました。日が沈み安息日が終わると、多くの人々が病人や悪霊に取りつかれた者をイエスのもとに連れてきました。イエスは一人ひとり癒し、悪霊を追い出されました。これは夜遅くまで続いたのではないでしょうか。

 けれど翌日、と言ってもユダヤでは一日は日没から日没までなのでユダヤでは翌日ではなく同じ日なのですが、朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられました。

 疲れておられただろうと思います。けれど、イエスには人里離れた所へ出て行って一人で祈る時が必要でした。一人、神と向かい合う時が必要だったのです。

 祈りとは、神との交わりです。神に従い、神と共に歩む上で欠かすことのできないものです。礼拝は基本的に週に1度安息日に行われていました。現代では、一人ひとりが聖書を買うことができますが、それは印刷技術が発達したここ数百年のことで、聖書は礼拝で朗読されるのを聴くものでした。ですから、毎日の信仰生活を支えるのは祈りでした。

 祈りにおいて、神の民はいつでも・どこでも神と向かい合い、神との交わりに与ることができるのです。祈りは、日々の信仰生活を支える恵みの賜物なのです。一人ひとりの信仰を育む上で、祈りは礼拝と並んで中心となるものです。

 日々の祈りにおいて、一人で神の前に立つことにおいて、神とわたしとの関係が確立されていくのです。

 

 イエスは祈りの人でした。祈りによって神と結ばれ、神と共に歩まれました。ヘブライ人への手紙の中では、おそらく十字架の前のゲツセマネの祈りを指してこう言っています。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」(ヘブライ5:7)

 すべてを神に委ね、すべてにおいて神に従う救い主としてのイエスの歩みを支えたのは祈りでした。

 けれど、弟子たちはまだそのような信仰を知りませんでした。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると「みんなが捜しています」とイエスに告げました。まるで、あなたを必要としている人がたくさんいます。こんな所で祈っている場合ではありません、と言わんばかりです。

 けれど、イエスの答えはこうでした。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」 多くの人の待つカファルナウムへは戻らないと言うのです。カファルナウムでは大勢の人が癒しを求め、悪霊追放を求めてイエスを待っていました。しかし、イエスはそこへは戻られませんでした。 自分を必要とする人がそこに大勢いて、その人たちを助ける力がイエスにはあるのに、なぜイエスは戻られなかったのでしょうか。

 

 自分のもとに集まる人々を癒すだけであれば、サタンの誘惑に乗るのと同じ。

 マルコによる福音書では詳しく述べていませんが、マタイとルカの福音書ではサタンの誘惑がどんな誘惑であったか記しています。石をパンに変える奇跡、天使に守られていることを見せる、サタンから世界をもらう。

 パンでも癒しでも人々の必要を満たし、神の力を見せるということなら同じ。神との関係は変わらない。 イエスは宣教する。そのために出てきたと言われます。

 ヨハネによる福音書では「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。」(ヨハネ18:37)と言われました。

 

 弟子たちがイエスの務め、働きについて十分理解していなかったように、わたしたちも神の国の福音を述べ伝えることの重大さを理解していないことがあります。

 礼拝や祈りは、奉仕のための動機づけや取っ掛かりでしかなくなっていることがあります。礼拝や祈りが心身共に余裕があるときにするものになっていたりする。神の国の福音を述べ伝えることの重大さ、伝道の大切さを理解していません。

 神の言葉には力があり、神が今も伝道を通して救いの業をなしておられることを忘れてしまっています。

 しかし、イエスは弟子たちを本来の道に連れ戻されます。

 人はイエスを奇跡を行う者として求めますが、近づいている神の国の福音を述べ伝えるために、人々を悔い改めへと導くためにイエスは来られたのだ、ということを改めて教えられます。 パウロ「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。」(1コリント9:16)と言っています。わたしたちは託された務めをきちんと自覚し果たしているのか。

 そして、イエスガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出されました。

 

 神との関係が整えられ、確立されなければ、神の民、教会の業ではありません。福音が述べ伝えられ、神の国が到来する中で、癒しも奉仕もなされていく。

 イエスは癒しや悪霊追放を止めてしまわれたのではありません。福音が述べ伝えられ、神の国が現れる中で御業をなさる。

 

 わたしたちは祈りの民となり、宣教に仕えなくてはなりません。

 救いの恵みを受け、祝福されて遣わされなくてはなりません。

 その時、限界ある人間の業としてではなく、限りない愛を注がれる神の御業に仕える者として遣わされ、神の国の働きに用いられていく。

 

「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(ヘブライ4:16)

 

 祈りにおいてもっともっと神に近づき、福音を述べ伝えましょう。神はわたしたちと共におられ、わたしたちを通して御業をなしてくださいます。

 

 

以下は、説教後の長老の祈り

天の神さま、私たちは神さまから離れ、この世の物に心奪われ、祈ることさえ忘れて歩むことの多い罪深き者です。しかし、神さまはそのような私たちに限りのない愛を注いでくださいました。

神さまの愛につつまれて、日々を歩んで行くことが出来ますように。祈りつつ神さまから与えられた業を、神さまを宣べ伝えていく事が出来ますように。

この祈りを主イエス・キリストの御名によりましてお献げいたします。

アーメン