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「おびただしい証人の群れに囲まれて」(ヘブライ人への手紙11:39~12:2)

  「おびただしい証人の群れに囲まれて」
 
2022年11月20日(日)聖霊降臨日後第24主日【逝去者記念礼拝】
聖書箇所:ヘブライ人への手紙 11章39節〜12章2節
 
 わたしたちはきょう、先に召された兄弟姉妹を覚えて礼拝を守っています。

 わたしたちの信仰は伝えられたものです。神と共に歩み、キリストに従って生きた信仰の先輩たちから伝承されたものです。

 ヘブライ人への手紙 11章1節では「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」だと言っています。望んでいる事柄とは「救いの完成」であり、「神の国の到来」です。それは、まだ誰も見たことのないものです。しかし、それを、イエス キリストの十字架と復活、その生涯において確認するのです。キリストと出会い、神を知ったがゆえに、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認するのです。目に見えないものを信仰の目で見て、未来の事柄を信仰によって、今のものとして経験するのです。
キリストを信じた者たちは、目に見える世界よりもはるかに大きな世界に生き、今という時間からも解き放たれて生きたのです。

 11章39節には信仰を持って生きた人たちはすべて「その信仰のゆえに神に認められた」とあります。口語訳聖書では「信仰によってあかしされた」となっています。この「あかしされた」というのは、本来「名前が記録される」という意味です。つまり、信仰の先輩たちは、信仰によって、その名が記録された、ということを意味しています。神の民の名前が、
記されている命の書に、その名が刻まれたことを示しています。神がその名を、救いの中に刻み込んでくださるのです。

 ただし、彼らは救いの約束の完成をこの世において受けることはありませんでした。それぞれに与えられた生涯を全うし、地上の生涯を終えました。しかし、彼らは「目に見えない方を見ているようにして」(11:27)神と共にこの地上の歩みを全うしたのです。

 神は、すべての信仰者のために、ご自身のひとり子イエス キリストを世に遣わすという「更によいものを備えて」くださいました。1970年に発行されたNew English Bible(NEB、新英語聖書)では、「わたしたちを心にかけ、神はさらに良い計画をあらかじめ立てておられたので、先に召された信仰の先輩たちは、これから召されていくわたしたちと連れ立って、初めて完成に至る」と述べています。

 神のひとり子イエス キリストは、自分自身を神に捧げる大祭司として、この世に来られました。イエス キリストは、ご自分の命をもって、わたしたち一人ひとりの救いを獲得してくださいました。すべての信仰者は、キリストへとつながり、キリストによって救われ、完成へと至るのです。キリストこそ、わたしたちの信仰の始まりであり、信仰の目標です。
信仰の創始者であり、完成者、それが、イエス キリストなのです。

 神はこのように、ひとり子イエス キリストにおいて、すべての信仰者を救いへと導かれました。神はキリストにおいて、わたしたちに対する愛、救いの完成、永遠の命、そして、神の国を明らかにされました。

 そして今、わたしたちは、キリストの救いに入れられ、救いを証しした多くの人を思い起こすことができます。まさに、12章1節で語るように、「わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれているの」です。

 証人、証し人という言葉は、当時は、殉教者を指す言葉でした。そこには、キリストと共に生きたという思いが込められています。証し人たちは、復活の主を見上げて、苦しみも、そして死も含めて、与えられた生涯を全うしました。イエス キリストにこそ、救いがあり、希望があり、命があることを、自ら証しをして、生涯を全うしたのです。

 聖書は、わたしたちにこう勧めます。12章の1節と2節「わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪とをかなぐり捨てて、自分に定められている競走を、忍耐強く走りぬこうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」。

 聖書は、わたしたちの人生を忍耐強く走り抜かねばならない競争に例えています。そして、走り抜くための大切な点を指摘しています。それは、イエス キリストという目標がはっきりしたならば、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、目標を目指して走るのです。

 わたしたちは、いろいろなものを握りしめて、抱え込んで、生きています。しかし、どれ1つとして死を越えて、持っていくことはできません。この世に生まれるとき、何も持たないで、ただ命のみが、与えられました。そして、この世を去る時、何も持たずに、与えられた命を、主にお返しして、主の御手に受け止めていただくのです。
この世において、良いもの、価値あるものとされる名誉や誇りでさえ、イエスに向かって走るのを妨げる重荷や絡みつく罪にしかなりません。

 信仰者が証しするのは、キリストに救われ、支えられて、キリストと共に生きたということです。立派な人生を送りましたということでは決してありません。召されたすべての信仰者が死を迎えるとき、何が希望であり、支えとなるのでしょうか。それは、イエス キリストが、わたしの救い主となってくださったということ。イエス キリストが、ご自分の命さえも、惜しまず、わたしの救い主となってくださったということ。イエス キリストがご自分の命を献げて、わたしの救い主となって、わたしを罪と死から救ってくださったということです。

 そのために、イエス キリストご自身、自らの前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになられたのです。神のままで、栄光に包まれることをお選びにならないで、わたしたちの救いのために、人となって世に来られました。わたしたちが負うべき裁きを、ご自分の命によって、負ってくださいました。そして、死を打ち破って、復活し、わたしたちが神の御許へと帰る道を開いてくださったのです。

 このイエス キリストに救いがあります。すべての信仰者は、この方によって救われました。そして、この方は、神が造られたすべてのものの救いのために、わたしたちのためばかりではなく、全世界の救いのためにその命を献げてくださいました(1ヨハネ 2:2)。
 

 ですから、わたしたちは、先に召された、愛する者たちを、イエス キリストにあって、確かな救いの希望の内に、思い起こすことができるのです。

 私たちに命を与えてくださった神が、私たちの死を良しとしないで、ひとり子の命を差し出してまで、お救いくださったのです。この神によって、天へと先に召されたのです。先に召された、愛する一人ひとりが、今、神の救いの内にあることを、イエス キリストが保証し、確かなものとしてくださっています。

 そして、わたしたちも、先に召され、救いに入れられた者たちの後に続くのです。信仰の創始者また完成者であるイエスをしっかりと見つめて生きるのです。すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、キリストの愛に包まれているこの命、この人生を、キリストと共に生きるのです。
 
  祈ります。