聖書の言葉を聴きながら

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「イエス・キリストとの本当の出会い」(マルコによる福音書1:29~34)

  「イエス・キリストとの本当の出会い」

 

 2022年10月2日(日) 聖霊降臨日後第17主日

聖書箇所:マルコによる福音書  1章29節〜34節

 

 安息日にカファルナウムの会堂で教えられたイエスは、会堂を出て、シモンとアンデレの家へと向かわれました。ヤコブヨハネも一緒でした。

 シモンとアンデレの家に行くと,シモンの姑が熱を出して寝ていました。

 シモンは既に結婚していました。シモンは仕事だけでなく、妻や家族をおいてイエスに従い始めたのです。10章28節で彼はイエスに「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いました。この時のイエスの答えはこうでした。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(10:29-31)

 イエスに従うということは、捨てるというよりもイエスの御手に委ねるのです。主が与えてくださったものを、主の御手に委ねるのです。主が与えてくださったものを誰よりも祝福して与えてくださることを信じて委ねるのです。

 この時も「すぐに」シモンとアンデレの家に行った、と言われています。ただ急いでいたのでしょうか。そうではないと思います。イエスはシモンがおいてきたもの、心に掛けているものを知っておられたのです。主はわたしたち自身だけでなく、わたしたちが心に掛けているもの,わたしたちとつながりのあるすべてを受け止めてくださるのです。

 イエスが来られたので、人々は早速熱を出しているシモンの姑のことを話しました。イエスは彼女のそばに行き、その手を取って起こされました。イエスはまっすぐに彼女のそばに行かれ、その手を取られました。イエスは癒しをなさる場合、手で触れられることが多く記されています。

 治療を手当てと言うように、神はこの手を神の御業に仕えるために用いてくださいます。治療する賜物を与えられている者は、まさに癒しのために用いられるでしょう。

 けれど、特別の賜物がない者でも手を置いて祈る、手を握って祈ることが大事だと思います。主がシモンの姑のそばに来て、手を取って起こされたように、主に遣わされたわたしたち一人ひとりが主と共にその人のそばに行き,身も心もそばにあって信頼する主に委ねて祈るのです。

 百倍受けると言われ、「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。」と11章24節で言われる主を信じて,祈り委ねることはキリスト者の大切な務めだと思います。

 

 イエスが手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなし始めました。

 当時、ユダヤ教の指導者であるラビは、婦人が食卓にはべることを許さなかったそうです。イエスの癒しは、単に病気が治っただけでなく、イエスに仕え、イエスと共にあることへの癒しでした。しかも男も女も共に主の許で喜べることへの癒しだったのです。

 おそらく、シモンの妻もこの時からイエスを信じるようになったのでしょう。コリントの信徒への手紙一9章5節に記されているようにシモンは後に妻と一緒にイエス キリストを述べ伝えて歩くようになりました。

 

 夕方になって日が沈み、安息日が終わると、人々は病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来ました。町中の人がシモンの家の戸口に集まりました。

 多くの人が生きることに苦しみを覚え、イエスの癒しを必要としていました。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しになりませんでした。それは、悪霊はイエスを知っていたからです。

 なぜイエスは悪霊にものを言うことを許されなかったのでしょうか。会堂で汚れた霊が「神の聖者だ」と叫んだときも「黙れ」と命じられました。

 この福音書を読み進めて行くと分かりますが、これは悪霊だけに限らず、弟子たちにも、癒された人々にも命じられます。ナザレのイエスとは一体何者なのか、これはマルコによる福音書の核心です。この問いを人々に突きつけ、この問いの前に人々を立たせるためにこの福音書は書かれていると言っても過言ではありません。

 

 イエスは重荷を負い苦しむ人を憐れまれ癒されましたが、癒しの人として知られることを望まれませんでした。

 一度イエスが癒したらもう後は病の心配が何もなくなるわけではありません。生きている限り、それはあるのです。そしてイエスに癒された人もいずれ死を迎えるのです。生きることの根本的な問題が解決されない限り、人は同じ苦しみを負い続けるのです。

 そして,イエスが求められたのは病気になったらイエスのところに行って治してもらえば大丈夫だという関係ではなかったのです。

 また、イエスはローマからの独立を願う人々によって解放の指導者として祭り上げられることも望まれませんでした。ユダヤがローマから独立して神の民の自由と自尊心が回復されれば問題が解決するのでもありませんでした。

 イエスは利用される関係を望まれなかったのです。何かのためにイエスの力が必要で、それが解決されたらイエスは必要なくなってしまう、そういう関係を求めてはいませんでした。

 

 では、イエスは一体何者で、わたしたちとどういう関わりを持とうとしておられるのでしょうか。それは、この福音書が繰り返しわたしたちに問い掛けながら、わたしたちをどこへ導いていくのかを考えなければなりません。

 それは、イエスの十字架と復活です。イエスが一体何者で、わたしたちとどういう関わりを持とうとしておられるのかは、十字架と復活を知らなければ正しく知ることはできないのです。

 イエスはわたしたちの罪を自ら負い、ご自身の命をもってそれを贖い、わたしたちを罪の支配から救い出してくださいました。そして、新しい命を与えるため死を打ち破り甦られました。ご自身のすべてを与え、共に神に従って生きるためにイエスは来られました。

 利用し合う関係ではなく、愛によってすべてを与え、すべてを求める、どこまでも共に生きるそういう関係を築くために来られました。

 そしてイエスは8章34~35節で「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」とお求めになります。

 

 わたしたちはイエスが一体何者なのか、よく知らなくてはなりません。福音書が何を語っているのか、よく耳を傾けなくてはなりません。そして、イエス キリストと本当に出会うとき、シモンの姑のようにイエスに癒され、起こされて、イエスに仕えていくことができるのです。それは今までにない、みんなと喜びを分かち合うことのできる新しい生き方なのです。

 

 イエスは、わたしたちのすべて、わたしたち自身も、わたしたちの持つつながり、愛する者たち、すべてを受け止め、すべてを与えてくださいます。ご自身の命をさえ差し出し、与えてくださいます。この方がわたしたちの救い主なのです。

 

  

 

 

 

「主を知ること」(ホセア書5:10~6:3)

  「主を知ること」
 
 2022年9月11日(日) 聖霊降臨日後第14主日
聖書箇所:ホセア書  5章10節〜6章3節
  
 人間は、困難な状況の中でその真価が問われます。いざという時にどう行動するかで、その人がどういう人か分かります。 

 ホセアという預言者は、紀元前8世紀に北イスラエル王国で活躍した人です。

 この時代には、イスラエル民族は北と南の2つの王国に分裂していました。分裂してしまうと、それぞれ自分たちの利益を考えて行動し、時に同じ民族でありながら争うことも起こってきました。 

 北イスラエル王国は紀元前8世紀半ばに全盛期を迎えましたが、崩壊は北イスラエル王国が誕生したときと同じく突然やってきました。 北イスラエルに全盛期をもたらしたヤロブアム2世が亡くなり、その子ゼカリヤが紀元前748年頃暗殺され、約100年間北イスラエルを治めたイエフ王朝は終わりを告げました。

 北イスラエルは急激に衰退し始め、アッシリア服従するようになりました。アッシリアの王ティグラト・ピレセル3世は領土拡張政策を進めました。ティグラト・ピレセル3世は、諸国を降服させて貢ぎ物を受け取るだけでは満足せず、征服地をアッシリア代理人が支配する属州とし、アッシリアへ併合することを始めました。 

 ちょうどペカが北イスラエルの王となった頃、ティグラト・ピレセル3世はアッシリアの隣国であるウラルトゥという国と事を構えていました。ペカはこの機会を利用して、アッシリアのくびきから逃れるために、古くからの仇敵であるアラムと反アッシリア同盟を結びました。この反アッシリア同盟は、シリアの国々、そして南に控えるエジプトの力でアッシリアに対抗しようと考えていましたから、ペカは強制的に南ユダ王国を同盟に加えようとしました。しかし、南ユダは今のエジプトがアッシリアに対抗できるだけの力がないことを知っていたので、同盟に加わりませんでした。そこで、北イスラエルは南ユダを攻撃しました。

 南ユダの王アハズは、静かにしているようにとの預言者イザヤの助言にも関わらず、アッシリアの王ティグラト・ピレセル3世に助けを求めました。そこでティグラト・ピレセル3世は、かねて計画していたように、シリアとパレスチナの征服に立ち上がりました。

 アッシリアの軍隊は、北イスラエルの同盟諸国を滅ぼし、北イスラエルは多くの領土を失いました。紀元前733年には、北イスラエルの中心部がアッシリアからの自由を保ち続けているだけでした。 そのような北イスラエルの困難に乗じて、南ユダは北イスラエルの領土をかすめ取ったのです。
 
 もはや北イスラエルにも南ユダにも神を畏れる思いはありませんでした。神の言葉に従い、神と共に歩む神の民の姿はそこにはもうありませんでした。
 
 彼らが恐れるのはこの世の力であり、彼らが求めるのはこの世の富でした。 神がシミとなり、腐れとなり、獅子となってその罪に気づかせる痛みとならなければならないとは、何という悲劇でしょうか。

 そして彼らはその耐え得ない痛みの中で、この世には誰も、そして何者も救い得ないことに気づかなくてはならないのです。
 
 わたしたちは危機の時に外部にその原因を求め、外部に解決を求めようとします。北イスラエルも南ユダも危機に陥っているのは誰の目にも明らかでした。社会に大きな傷があり、その傷が膿んでいるのは分かっていました。しかし、どうしてそのようになってしまったのかは誰も分からずにいます。

 いや、分かろうとしませんでした。預言者がどれほど語ろうとも、その声に耳を貸そうとはしませんでした。そして、人々はこの世の力に頼ろうとしてますます神から離れていきました。
 
 わたしたちは、自分自身の生における傷の原因を知ろうとしない場合が多くあります。窮地に陥った場合、その責任が自らの内側にあることを認めるよりも、数多くの外的状況の中にその原因を見つけだそうとします。

 教会もまた、その内側が病んでいることを認めるよりも、その衰退を自分たちの外側の社会的な事柄から理解しようとします。
 
 ここでわたしたちはもう一度よく考えることを求められています。わたしたちの危機の原因は、わたしたちの外側にあるのでしょうか。 神は、わたしたちがどこまでもこの世の力、神ならぬもの、空しいものに頼っていこうとするとき、わたしたちが頼りにならぬものに心を寄せていることを分からせるために、その姿を隠されます。わたしたちは罪の世において、罪の痛みの中で、神だけがわたしたちの傷を癒してくださることを知らなければならないのです。神から離れたことによってこの傷を身に負い、神のもとに立ち返ることによってのみこの痛みから解放されることに気づかなくてはなりません。 
 
 この世は滅びいく世ですが、神のもとには癒しがあり、命があります。神はこの御言葉をもキリストによって成就されました。キリストはまさしくわたしたちに先立って三日目に甦られたのです。 

 この罪の世にあっては、キリストを信じる者も、信じない者も共に死を迎えます。この罪の世にあってはすべてのものが滅びへと向かいます。

 しかし、神のもとへ立ち返った者、キリストを信じた者には、甦りの命が与えられるのです。そして神のもとで、罪ゆえに傷つき傷つける命ではなく、愛し合い、喜び合う命が満ちあふれてくるのです。
 
「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし 我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし 三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ 降り注ぐ雨のように 大地を潤す春雨のように我々を訪れてくださる。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「権威ある新しい教え」(マルコによる福音書1:21~28)

  「権威ある新しい教え」

 
 2022年9月4日(日) 聖霊降臨日後第13主日

聖書箇所:マルコによる福音書  1章21節〜28節

 

  イエスの一行はガリラヤ湖北岸の町カファルナウムへとやってきました。神に礼拝を捧げ憩いを得るためいっさいの仕事を休む安息日に、イエスの一行も礼拝を捧げる会堂に行かれました。会堂では管理者の許可を得た者は誰でも聖書の話をすることができたので、イエスも人々の前に立って教え始めました。

 会堂にいた人々はイエスの教えを聞いて非常に驚きました。それは、イエスが律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからです。

 聖書には様々な律法、戒めがありますが、律法学者と呼ばれる人たちは聖書の中のたくさんの戒めをきちんと守るために研究をし、人々に教えていました。

 ガラテヤの信徒への手紙5章14節には「律法全体は,「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。」という御言葉があります、律法は、わたしたちを愛しておられる神が、罪の世にあっても神と共に歩んでいけるようにと与えてくださったものです。神の愛から律法は与えられたのです。ですから、神がわたしたちを愛していてくださる愛、神の愛によってこそ律法は全うされるのです。律法を守ることを通して神へと思いを向け、神の愛を受け、その愛を分かち合うために律法を与えられた神の思いを知っていくことが大事なのです。そして喜びをもって神と共に生きる、神の愛によって生きることが大事なのです。

 ところが、律法学者たちは「これでわたしたちはきちんと律法を守っている」という自己満足で終わってしまい、律法学者たちの話を聞いても神に出会い、神を知ることはできませんでした。そこに神の愛はありませんでした。しかし、イエスは律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになりました。

 ここで言う権威とは、神の権威です。聖書では、権威は神にのみあります。そして、神の御心を行う者に神は権威をお与えになります。イエスは、まさに御心を行う者として、神ご自身が語りかけるように聖書を教えられたのです。イエスの教えを聞いた人たちは、神へと導かれ、神の思いを知らされたのです。罪を断ち切ってわたしたちを救い出し、わたしたちを祝福し共に生きようとしてくださる神の愛を知ったのです。

 聖書のヨハネの手紙1 4章7節~10節にはこう記されています。「愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって,わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」

 イエス キリストは神の愛の現れです。イエスにおいて神の愛が明らかにされました。イエス キリストを仰ぎ、イエスから聞くとき、わたしたちは神ご自身の思いを聞き、わたしたちに対する神の愛を知ることができるのです。

 

 イエスが会堂で人々に教えたこのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫びました。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」

 ここでいくつか説明をしましょう。

 “汚れた霊”とありますが、“汚れた”というのは体が汚いとか道徳的に悪いことという意味ではなく、神から遠ざかっている,神に逆らっているという意味です。

 次に、イエスはナザレという村の出身なので人々から“ナザレのイエス”と呼ばれていました。

 三番目に、「かまわないでくれ」という言葉は「わたしたちとあなたと何か関係するもの、共通するものがあるのか」という言葉です。

 

 神の御心をそのままに語るイエスの言葉には力がありました。神の言葉が天地万物を造り出したように、イエスの言葉には人を新しく造り替える力がありました。神に逆らい、神から遠ざかろうとする汚れた霊は、イエスの言葉を聴いて自分の危機を感じました。そして叫んだのです。「あんたとは何の関係もないだろう。かまわないでくれ。」

 不思議なことですが,この汚れた霊に取りつかれた男が最初にイエスの本当の姿を知ったのです。

 頭のいい人、心の優しい人がイエスを知り、信じると思うかもしれない。しかし,そうではない。自分の中に汚れた霊がいることを知り、罪に苦しんでいる者こそイエスの本当の姿が分かるのです。

 パウロという人も聖書のローマの信徒への手紙7章でこう語っています。「わたしは,自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」(ローマ7:15,19-20,24-25)イエスの前で自分の罪を知って恐れる人こそ、救われるのです。

 ためになる良いお話を聞いて、今の自分に良いものを足していっても救われません。イエス キリストに出会い,イエスの力ある言葉によって新しくされなければなりません。

 

 イエスが汚れた霊に「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行きました。

 神の霊である聖霊に満たされたイエス キリストは汚れた霊を追い出し、わたしたちを清めることがおできになります。荒れ野でサタンから誘惑を受け,それを退けられたイエスだからこそ、ご自身の霊によってわたしたちの中の汚れた霊を追い出してくださるのです。

 森有正という人はこう言っています。「人間が、だれはばからずしゃべることができる観念や思想や道徳や、そういうところで人間は誰も神様に会うことはできない。人にも言えず、親にも言えず、先生にも言えず自分だけで悩んでいる、恥じている、そこでしか人間は神様に会うことはできない。」

 

 わたしから見て,皆さんが汚れた霊を抱えているようには見えない。しかし、イエスキリストはそれを知っていてくださる。その苦しみを、痛みを、受け止めてくださる。そして、わたしたちを救い出してくださる。

 

 これを見た人々は皆驚いて、論じ合いました。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」そして,イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まっていったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

「悟るように語り続けられる主」(ホセア書4:11~14)

 「悟るように語り続けられる主」

 

 2022年8月28日(日) 聖霊降臨日後第12主日

聖書箇所:ホセア書  4章11節〜14節

 

人間は、何かに頼らなくては生きていけない存在です。人間は、生きていくのにあたって、何らかの判断基準を必要としています。何をなすべきであり、反対に何をすべきでないのか、それらを判断する基準、支えを必要とします。それが、人によっては、宗教であったり、哲学であったり、信念であったりするわけです。 人間は、一人で生きていくことができない社会的な生き物です。共に支え合い、協力しなくては、生活していくことはできません。人間は、共同生活なくしては生きていけない存在です。そして、この共同生活を行うには、必然的にルールを必要とします。みんなが受け入れ、支えとし、お互いを守っていくことのできるルールを必要とします。このルールは、民族、宗教、文化の違いによって、変わってきます。そして、このルールは、ルール自身の持つ内的な権威によって、人々に受け入れられるか、あるいは、権威ある者によって強制されるかによって守られていきます。

しかし、このルールは共同体に属する者を、ある意味、強く拘束するため、違うルールが混じり込んできた時に、混乱を引き起こします。この時、人間は、自分の内側に抱え持つ大きな矛盾を露呈します。人間は、決して自分一人では生きていけないにもかかわらず、基本的に束縛を嫌うからです。

精神的にも、経済的にも、社会的にも一人で生きていくことができないくせに、できることなら、自分は自由気ままでいたいと思うのです。だから、複数のルール、このルールという言葉は、価値観や価値基準と言い替えることができますが、生活の場に、複数の価値基準が存在している時に、人間は自分に都合のいい価値基準を、自分の好みに合う価値基準を選ぼうとするのです。昔からのしきたりを大事にする人、新しいやり方を好む人、みんなと一緒がいい人、個人、個人が自由なのがいい人、それぞれが自分に合う価値基準を選ぶのです。 こうなってきますと、共同体は次第に混乱をきたします。今まで自分たちを支えてきた共通のルールが、共通ではなくなってくるのですから、当然といえば当然です。お互いの都合がぶつかり合い、トラブルが生じます。トラブルが生じる中で、今度は、新しい秩序を生み出そうとする努力がなされます。私たちが生きているこの時代は、新しい秩序を生み出す努力をおこなっている時代です。しかし、まだ、新しい秩序は見出されてはいません。世界的にも、国内においても、様々な混乱や荒廃が存在しています。権威ある者は、教育や道徳によって秩序を作りだそうとします。宗教や哲学もそれぞれの仕方で秩序をもたらそうとしています。このように今、世界は、多様な価値観、文化が、平和に共存し得る秩序を求めて必死になっています。

 

この混迷した時代に私たちはどう生きていけば良いのでしょうか。何を依り所として、何を頼みとして生きていけば良いのでしょうか。物質的に恵まれた自由な時代だから、好きに生きていけば良いのでしょうか。 今日お読みました聖書の御言葉は、豊さと平和の中で、別の宗教に走り、次第に混乱の度合を深めていった北イスラエルの民に向かって語られています。

神によって選び出されたイスラエルの民は、本来頼りとすべきもの、民族共同体のルールを、神から与えられていました。私たちが手にしている聖書の最初に記されている創世記、出エジプト記レビ記民数記申命記の5つの書物が、イスラエルの民に与えられた神の言葉でした。神はここにおいて、人間の罪の問題、罪ある者が神と共に生きるための礼拝の問題、道徳的な戒め、民法や刑法の問題に至るまで細やかな配慮を行って、イスラエルの民が祝福のうちに生きることができるように語っていてくださいます。

これらの御言葉は、私たちキリスト者も神の言葉として持っているわけですが、その私たち自身が、神の言葉に従い得ないことをよく知っています。そして、私たち自身が神の言葉から離れて生きようとする罪を負っていることをよく知っているのです。 今日の御言葉の中に出てくる酒も、木に向かって事を尋ねることも、犠牲を献げることも、異教の神々を崇める偶像礼拝に関連する事柄です。聖書は、この偶像礼拝を一言で言って「心地よい」から、彼らは行うのだと13節で、述べています。確かに偶像礼拝は、心地よいし、大変、楽なのでしょう。献げものだけを献げたら、後は好きに生きることができる。

キリスト教の神のように毎日どう生きるかまで語ることはない。迷った時に、占ってもらって、どうすれば自分に都合よく事が運ぶかを決めてもらう。神に仕える時には、飲んで食べて、騒いで時を過ごす。まるで保険をかけるかのように神に献げものをし、迷った時、困った時には、神のもとを尋ね、楽しいことがある時には、熱心な信仰者になる。これが心地よい偶像礼拝の姿なのです。 これは、私たちを取り巻く状況とよく似ていないでしょうか。お正月やお祭りの時、たくさんの人が神社に集まります。占いは、どんな雑誌を見ても載ってない本がないぐらいに盛んです。ほとんどの人は、死ぬと仏教式で葬儀を行います。お彼岸やお盆の行事は欠かしません。しかし、ほとんどの人は、自分は無宗教だと言います。たくさんの神々が存在し、宗教行事は賑やかに行われていますが、ほとんどの人は、自分の都合で、神を利用しているだけの偶像礼拝をしているのです。その結果、聖書に記されているように思慮は奪われ、誤った導きを示され、宗教儀式や宗教産業は盛んになるけれども、生きることそのものは崩れてくるのです。北イスラエルにおいては、偶像礼拝と共に、性的不品行が広まり、家庭の崩壊、社会の廃退をもたらしました。今の日本の状況はどうでしょうか。新聞・テレビ・雑誌などで目にすることはどうでしょうか。私たちの周囲の様子はどうでしょうか。思慮を奪われてはいないでしょうか。誤ったことが示されてはいないでしょうか。儀式は盛んで、人々も楽しんでいるようでありながら、生活が崩れてはいないでしょうか。様々な破れや痛みを抱えて苦しんでいないでしょうか。 神は、今日の最後のところ14節で「悟りのない民は滅びる」と言われました。

これは審きの言葉ではなく、私の声を聴いて悟りなさい、という招きの言葉です。

では、私たちは何を悟らねばならないのでしょうか。それは、神の言葉に照らされて、私たちの本当の姿を悟るのです。

誰が私たちに命を与えてくださったのか。私たちの苦しみの本当の原因、罪とは何なのか。一体誰が、この罪の悲しみの中から救ってくれるのか。誰が私たちを本当に愛してくれているのか。私たちはどのように生きたら良いのか。私たちの希望はどこにあるのか。これらの一つ一つのことについて、神の言葉に照らされ、導かれながら悟るようにと、神は招いておられるのです。 神は、私たちを祝福のうちに御自身の姿に似せて愛に生きる者としてお造りくださいました。

神は、罪を犯し、繰り返し背く私たちを、なお愛してくださり、私たちの救いのために独り子である御子を人としてこの世に遣わされました。

 

ヨハネによる福音書の3章16節には「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とあります。神が御子を遣わされたのは、世を審くためではなく、御子によって、世が救われるためなのです。そして、御子イエスは、私たちの救いのために、神の栄光を捨て、人としてこの世に来られ、私たちのために、十字架の上で御自身の命を献げられました。ヨハネの手紙1の2章2節には、「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」とあります。

神は、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます(テモテ第1:2:4)。

ですから、紀元前8世紀の預言者ホセアを通して、民が悟るようにと、語られますし、今日、全世界のキリストの教会を通しても、私たちに悟るようにと語り続けられるのです。 このようにして語られる、この神の言葉には力があります。闇に光を照らしだし、無からすべてを創り出し、命を生み出す力があります。私たちを罪の闇の中から神の光の中に救い出す力があります。私たちを死の滅びから永遠の命へと移しかえる力があります。この力に満ち溢れる神の言葉が、今、皆さんに「悟りなさい」と呼びかけているのです。

私たちは、何を信じても同じでは、決してありません。熱心であれば、どれでもいいのではありません。私たちには信ずべきもの、依り頼むべきものがあるのです。移りゆくこの世にあっても、変わることなく、世の初めから今に至るまで、そして私たちが罪に身を沈め、神に背を向けている時にも一点の曇りもない、全き愛をもって語り続けてくださる、この神こそ信ずべきお方なのです。この方のもとにこそ、命と愛とが満ち溢れているのです。

本当に信ずべきお方を信じる時、私たちはその祝福のうちに、生きることができます。

そして、その祝福は信じる者だけを祝福するのではなく、共にいる者をも祝福するのです。 14節で、神は人々の罪の責任を、祭司に対して問うておられますが、逆に言うならば、神に仕え、神の言葉を取り次ぐ祭司が神から離れず忠実であるならば、民もまた、神の祝福のうちにあったということです。今、神の言葉を聴いた私たちが悟り、御言葉を伝え、証して生きるならば、大いなる神の祝福を見ることができるでしょう。いかにこの世の現実が立ちはだかろうとも、神の力によって祝福が現れ出るのです。 私たちは、死に向かって虚しく生きるのではありません。本当に信ずべきお方を信じる時、死から永遠の命へと移され、神の祝福を取り次ぐ器として用いられていくのです。喜びと感謝の人生が、ここにはあるのです。今こそ悟るべき時、祝福に生きる時なのです。 

祈ります。

 

 

 

 

 

 

 

「わたしについて来なさい」(マルコによる福音書1:16~20)

 「わたしについて来なさい」

 

 2022年8月21日(日) 聖霊降臨日後第11主日

聖書箇所:マルコによる福音書  1章16節〜20節

 

 

1.(人の思いを超える神のみ業)

 イエスは自分の故郷ナザレのあるガリラヤで救い主として活動を始められました。後にイエスは(ルカ4:24)「預言者は自分の故郷では歓迎されないものだ」と言っておられますが,ガリラヤは決して活動しやすいところではありませんでした。また,ガリラヤは,イザヤの預言の中で(8:23)「異邦人のガリラヤ」と呼ばれているようにユダヤにとっては辺境の地でした。わたしたちは人も多く,しがらみの少ない都会の方が伝道しやすいと思っていますが,神の思いはわたしたちの思いとは違います。教会の業は神の救いの御業であるということを忘れてはなりません。神の御業は人の思いを越えています。やりやすそうだとか,この人は信じるかもしれないではなく,命を造り出される神,救いのために独り子をさえ遣わされる神が御業をなされるのだということを心に留めなくてはなりません。

 

2.(イエスの後について行く4人)

 イエスガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき,シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になりました。彼らは漁師でした。イエスは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。すると,二人はすぐに網を捨ててイエスに従いました。少し進んで,ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが,舟の中で網の手入れをしているのをご覧になると,すぐに彼らをお呼びになりました。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して,イエスの後について行きました。とても不思議な話です。シモンとアンデレ,そしてヤコブヨハネ,彼らはイエスを知っていたのでしょうか。イエスの話を聞いたことがあったのでしょうか。ルカによる福音書によれば,彼らを弟子とされる前にイエスは活動を始められて(4:37)「イエスのうわさは,辺り一帯に広まった。」と書かれてあります。しかし,マルコによる福音書は何もそれらしきことは書いていません。たとえうわさを聞いていたとしても,直接会ったのは初めてだったのではないでしょうか。見知らぬ男がやってきて「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言ったのです。怪しいこと,この上ない話です。けれど彼らは網を捨ててイエスに従うのです。これは不思議な話なのです。

 

3.(招かれる主)

 不思議なことに彼らは救い主に出会ったのです。彼らが救い主を探し求めていたのではありません。イエスが彼らのところに来られたのです。イエスが彼らに声をかけ,招かれたのです。わたしたちは自分で何かを求めて教会に行ったと思っているかもしません。しかしそうではなく,見ず知らずのイエスがわたしたちの日常の生活の中に来られて「わたしについて来なさい」と招かれ,導かれたのです。4人の弟子たちもなぜこの時,網を捨ててイエスに従ったのか具体的な説明はできないと思います。そういうことは聖書のどこにも書かれていません。ただ彼らはイエスに出会い,イエスに招かれたから,従ったとしか言えないでしょう。彼らはイエスのことをよく知っていて,好きだから従ったのではありません。イエスに「わたしについて来なさい」と言われたのです。ヨハネによる福音書では(15:16)「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」とイエスは言われています。またヨハネの手紙一には(4:10)「わたしたちが神を愛したのではなく,神がわたしたちを愛して,わたしたちの罪を償ういけにえとして,御子をお遣わしになりました。」と書かれています。わたしたちはそれぞれこういう中で教会に行くようになった,こういうことがあって求めるようになったというようなことがあると思います。けれど根本的な理由はわたしたちの内にあるのではなく,神の内にあるのです。神がわたしを愛してくださり,キリストを遣わしてくださった。イエス キリストがわたしのところまで来て出会ってくださり,「わたしについて来なさい」と招いてくださった,ここにキリストに従うすべての弟子の理由があるのです。

 

4.(イエス キリストが私たちのために来てくださった)

 シモンとアンデレ,ヤコブヨハネにとってイエスとの出会いは決定的なものでした。すぐに網を捨てて従うほどに,父を残してついて行くほどに決定的なものでした。聖書にあるたった一言だけでなく,もっと話したのではないかと思いますが,この出会いが何かというなら「イエスがわたしの働いているところに来てくださり,「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言って招いてくださった」ということなのだと思います。ここで「人間をとる」と言われていますが,「人間をとる」ということは人間が失われているということです。幼児の虐待,少年の犯罪,次々起こる事件,そして戦争のニュースを見るとまさしく人間が失われていると思います。弟子たちはイエスの言葉によって務めを与えられただけでなく,イエスが自分たちを求めて,捉えるために来てくださったことを知ったのです。自分の働いている,生きているその場にこのわたしを求めてやって来られた,自分の目の前にいるイエスという人が罪により失われていた人を捉え救い出してくださる,このわたしを救い出してくださる,そのことを知ったのです。

 

5.(イエスを信頼し,自分自身を委ねること)

 だから,すぐに網を捨てて従った,父を残してついて行った。放り出したのではなく,イエスを信頼し委ねた。後にイエスは(8:34)「わたしの後に従いたい者は,自分を捨て,自分の十字架を背負って,わたしに従いなさい。」と言われたが,これもイエスを信頼し,自分自身を委ねること。イエスが失われているものを捉えてくださるから,大事な人を,大切なことをイエスに委ねていく。仕事をし,家族とのことを果たし,余った時間でイエスを仰ぐのではない。第一にイエスに従うとき,すべてをイエスが捉え導いてくださる。だからイエスはこうも言われた。(マタイ6:33)「何よりもまず,神の国と神の義を求めなさい。そうすれば,これらのものはみな加えて与えられる。」

 

6.(この出来事はすべての人に起こっている)

 ここに出てくる4人は十二弟子と呼ばれる特別な務めに召されました。けれど,この出来事は特別な務めに召された人のためのものではありません。イエスに出会い,イエスに捉えられ救い出されたすべての人に起こった出来事です。主はすべての人に「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われています。主はわたしたちを用いて失われたものを捉え,愛する者を救い出されるのです。だから,主に従い,ついて行くのです。自分自身も,仕事も,愛する者もすべてを主に委ねてついて行くのです。主が御業をなしてくださいます。きょう心新たに主の招きを聴き,主に従いましょう。イエスは言われます。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」

 

祈ります。

   主イエスキリストの父なる神さま,あなたはわたしたちに 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」 といって私たちを招いてくださいます。 だからどうぞ心新たにして自分自身も,仕事も,愛する者もすべてを主に委ね 主に従うことができる者とさせてください。主イエスキリストの御名を通して祈ります。