聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ルカによる福音書 24:1〜12

2018年8月19日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ルカ 24:1〜12(口語訳)

 

 聖書の最も中心にあるメッセージは「神と共に生きる」ということです。神と共に生きるために神が御業をなしてくださったことを証しするのが「復活」です。罪によってもたらされた死を打ち破り、人を罪の支配から解放し、キリストのものとしてくださいました。そしてキリストの復活の恵みに与ることができるようにしてくださったのです。

 この神の御業の核心である復活について、四つの福音書はもちろんどれも語ります。しかし、この復活に関する記事は不思議なことがいくつかあります。
 一つは、復活そのものの証言がないということです。このルカの記事もそうですが、イエスが復活していく場面を見た証言はありません。例えば、イエスの遺体が光に包まれ、体を包んでいた亜麻布からイエスの体が抜け出て復活をした、というような復活そのものの証言はありません。あるのは埋葬した墓が空だったという証言です。
 二つ目は、福音書相互の証言が一致しない、ということです。ルカによる福音書は、マルコによる福音書を元にして、そこにイエスの説教を集めた資料と、ルカ独自の資料を用いて編纂されたと今日考えられています。ところが復活の場面で、マルコの記事とルカの記事とでは四つの点で異なっています。
 一つは、墓に現れた天使がマルコは一人ですが、ルカは二人です。
 二つ目は、復活のイエスはマルコではガリラヤへ行かれますが、ルカではエルサレムとその近郊で現れます。
 三つ目は、マルコでは天使と出会った女性たちは、恐ろしくて何も言えませんでしたが、ルカでは、弟子たちに報告をします。
 四つ目は、墓に行った女性たちの名前が、マルコではサロメとなっているところが、ルカではヨハンナとなっています。
 このように復活そのものの目撃者もなく、福音書相互の証言が一致しないので、復活は事実ではないと考える人が多くいます。信仰のある人でも、復活は弟子たちの心の中に起こった出来事であるから、証言が一致しないのだと考える人も少なくありません。

 しかし、ルカはマルコを元にしているので、福音書編纂に当たってルカがマルコの記事を変更しています。その理由を考えてみなくてはなりません。
 ルカが福音書の編纂をするときには、マルコによる福音書の写本がルカの手元にあって、それを参考にしています。マルコによる福音書と見比べたら復活の記事が一致しないことなど明らかです。信じてもらうためには、マルコの記事と一致させておくのが無難です。
 しかし、ルカも他の福音書記者も伝えられた復活の証言を重んじ、記録を一致させることよりも、神が復活の証言者を立て、自分に伝えてくださった証言を重んじました。キリストを伝える福音書がただ一つの完全な福音書ではなく、四つの福音書を神がお用いになったように、復活についても、神は四つの福音書の四つの証言を用いられたのです。
 そして教会は、その証しを重んじてきました。二千年の時があったのですから、一つの理想的な矛盾のない福音書を作る時間はありました。けれど教会はそういうことをしませんでした。聖霊によって導かれ編纂された聖書を重んじ、神の言葉として聴いてきたのです。

 さて今朝は、ルカによる福音書が伝える復活の証言を聞きましょう。
 イエスと一緒にガリラヤからきた女性たちは、イエスを埋葬した墓を見て、またイエスのからだが納められる様子を見とどけました。これは金曜日の午後、日が沈む前の出来事です。そして帰ってから、香料と香油とを用意しました。彼女たちはイエスを丁寧に葬りたかったのです。それからおきてに従って安息日(土曜日)を休み、週の初めの日(日曜日)、夜明け前に、彼女たちは香料を携えて、墓に向かいました。
 当時のユダヤでは、墓は岩をくり抜いて作りました。中に遺体を納めると、入り口を大きな石で塞ぎました。ところが、墓に着くと入り口の石が墓から転がしてあったので、彼女たちは中に入ってみました。しかし、納めたはずのイエスの遺体は見当たりませんでした。

 彼女たちが途方に暮れていると、輝いた衣を着た二人の天使が現れました。彼女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せました。天使たちは語りかけます。「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。」これがルカによる福音書の証言の核心です。
 罪の元々の意味には「的外れ」という意味がありますが、まさにこれです。彼女たちは、復活したイエスを墓の中、死者の世界に探します。彼女たちは、イエスが復活するなど考えられませんでした。この間違いをわたしたちもしてしまいます。キリストの救いに与ったのに、キリストと共にあることを忘れて、罪の世に留まり、罪がもたらした死の世界で、今も生きておられる復活の主イエスを探して、主がおられないと途方に暮れてしまいます。イエスが死の世界を打ち破られたのに、イエスと共に死の世界を抜け出さないで、死の世界でイエスがおられないと戸惑ってしまうのです。
 「よみがえられた」と訳された言葉は受け身形で、神によってよみがえらされたことを表しています。神の御心に従い、十字架の死に至るまで従順であったイエスを、神は死の世界においたままにはされないのです。そして、洗礼によってキリストと一つに結び合わされたキリスト者は、キリストの後に続いて、神によって死からよみがえらされるのです。

 天使たちはさらに語ります。「まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか。」ルカによる福音書では 9:22 に記されています。ルカでは他に 17:25, 18:32~33 にも記されています。18:34には「弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。この言葉が彼らに隠されていたので、イエスの言われた事が理解できなかった」とあります。女性たちにも分かりませんでした。彼女たちが天使たちと出会ったように、神の導きと証しがなければ神の御心、神の計画は理解できないのです。
 天使たちの導き、証しによって、イエスの言葉を思い出した女性たちは、墓から帰って、自分たちが経験した一切のことを11人の弟子たち、その他みんなに報告しました。キリストの復活は、常にそば近くにいた弟子たちによってではなく、女性たちによって証言されました。これは四つの福音書がそろって証ししていることです。女性たちの名前が挙げられています。マグダラのマリヤ、ヨハンナ、ヤコブの母マリヤ。彼女たちと一緒にいた他の女性たちもいました。何人もの女性たちが、空の墓を示され、天使たちの導きと証しによって、キリストの復活を信じました。

 ところが、使徒たちには、それが愚かな話のように思われて、それを信じませんでした。イエスが語られた言葉も、女性たちが報告したことも、使徒たちは信じませんでした。彼らは神がなさることが愚かに思えました。罪ゆえに使徒たちは神より賢かったのです。これは、彼らが今後使徒として働くために必要だったのでしょう。彼らは、イエスの言葉を信じなかった者、キリストの復活を信じなかった不信仰な者として仕えていくのです。自らの信仰を決して誇ることのできない者として仕えていくのです。福音を信じない誰に対しても、自分の信仰を誇らずに仕えるのです。
 ただペテロだけは、立って墓へ走って行き、空の墓を確かめました。かがんで中を見ると、亜麻布だけがそこにあったので、事の次第を不思議に思いながら帰っていきました。ペテロも復活のキリストに出会うまで、信じることはできませんでした。

 二千年前の人にも復活は愚かなことで、信じられませんでした。しかし、これこそ神の奇跡、神の救いの御業なのです。キリストが復活しなければ、キリスト教は存在しませんでした。一緒に捕まり、処罰されるのが恐くて逃げた弟子たちは、殉教してまでキリストの福音を宣べ伝えました。迫害者であったパウロも、復活のキリストに出会い、回心して使徒となりました。パウロは1コリント 15:14, 15, 17でこう書いています。「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。・・もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。」

 キリストが復活されたので、弟子たちは福音を宣べ伝えました。そして二千年、教会は立てられ、キリストの復活を宣べ伝えてきました。
 キリストを信じなくても、立派に生きることはできます。しかし、罪を贖われ、罪による死の世界から解放されるには、イエス キリストの救いによる他はありません。キリストが十字架で死んで、復活されるのでなければ、わたしたちはいつまでも死の世界に囚われたままです。しかし神は、わたしたちに神と共に生きることを望んでおられます。神はキリストを信じて、神と共に生きることを望んでおられます。

 キリストは、復活を信じなかったトマスに言われたのと同じように、今もわたしたちに語りかけて言われます。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(ヨハネ 20:27)

 

ハレルヤ

 

父なる神さま
 この朝、キリストの復活の証言を聞くことができましたことを感謝します。わたしたちは、キリストが復活された日曜日ごとに礼拝を守っています。キリストに付き従った女性たちが日曜日の朝、復活を知ったように、わたしたちも日曜日の朝ごとに御言葉を通して救いの御業を知らされています。どうかこのキリストの復活に与り、死の世界から救い出され、あなたと共に生きる恵みに満たされていくことができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン