聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

マルコによる福音書 1:1

2017年12月31日(日)主日礼拝  
聖書箇所:マルコによる福音書 1:1(口語訳)

 

 きょうは大晦日。1年最後の日です。明日になりますと、暦が改まり、新しい年、2018年が始まります。みなさんご存じのように、この2018という年の数え方は、イエス キリストの誕生を基準として定められました。実際は、キリストの誕生とは数年のずれがあるようですが、紀元前をキリスト以前(before Christ)B.Cと言い、紀元後をキリスト以後(Anno Domini)A.Dと定め、年代を表現してきました。わたしたちが主と仰ぐお方は、わたしたちの歴史を治め導かれる主であります。主の2017年が主の導きのもと終わりを迎え、主の2018年が主によって開かれ、主によって始められるのです。
 この暦が改まる最後の日に、わたしたちが聴く御言葉は、イエス キリストの生涯を記した4つの福音書の中で最初に記されたと言われているマルコによる福音書の最初に記されている御言葉です。

 新約には27の文書が収められていますが、福音書は比較的遅くまとめられたものです。イエスを直接知っている使徒たちが世を去っていくようになって、イエスがキリスト、救い主であることを伝えるため福音書がまとめられるようになっていきました。
 聖書にはイエスがキリストであることを正しく証ししているものとして四つの福音書が収められています。その四つの福音書の中で、マルコによる福音書が一番最初にまとめられた福音書だと考えられています。いちばん短い福音書ですが、マタイによる福音書ルカによる福音書もこのマルコによる福音書をもとにしてそれぞれ福音書をまとめあげています。短いですが、マタイ、ルカの手本ともなった大切な福音書です。

 福音書はそれぞれ特徴のある書き出しで書き始められています。マルコによる福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め」という一文で始まります。

 ここに福音という言葉が出てきます。福音というのは、良い知らせという意味です。この福音という言葉は、元々は聖書の言葉ではありません。当時一般には、新しく王が即位したとか、戦いに勝利したといった知らせを福音と呼んでいました。

 皆さんよくご存知のマラソンという陸上競技の名前の由来にこういう話があります。紀元前490年、ギリシャペルシャは戦争をしていました。特に激しい戦いになったのはアテネの東北にあるマラトンの平野でした。この戦いはギリシャ軍の勝利に終わりました。この勝利を伝えるため、マラトンからアテネまでの長い道のりを一人の兵士が走り続けました。息も絶え絶えにアテネに着いた兵士は「喜べ、我々は勝ったぞ」と叫んだ後、疲れ果てて死んでしまったという話です。この「喜べ、勝ったぞ」という知らせを「福音」と言っていたのです。聞く者に喜びを与える知らせのことを当時は福音と言っていたのです。

 当時、福音はキリスト教の特別の言葉ではありませんでしたから、マルコによる福音書はこの福音という言葉を使うにあたり、「イエス キリストの福音」と言ってこの福音がどのような良い知らせなのかを明らかにしようとしました。
 イエス キリストの福音と言った場合、イエス キリストがもたらしてくれた良い知らせということです。福音という言葉は勝利の知らせに使われていたと言いましたが、まさにイエス キリストの福音は勝利の知らせでした。罪と罪がもたらす死に対する勝利の知らせでした。そして、福音という言葉は新しい王の即位にも使われたと言いましたが、罪と死からわたしたちを解放し、イエス キリストがわたしたちの新しい王、主となられたというのがイエス キリストの福音なのです。
 このイエス キリストの福音は、イエス キリストがご自分の命を懸けた十字架と復活によってなされました。ですから、イエス キリストの福音はイエス キリストがもたらしてくださった良い知らせであると同時に、イエス キリストご自身が良い知らせそのものなのです。イエス キリストが福音なのです。

 この一番最初にまとめられ、いちばん短いマルコによる福音書は、そのイエス キリストの福音を伝えていくためにまとめられたものなのです。イエス キリストの十字架と復活をきちんと伝えるためにまとめられました。マタイやルカのように誕生の話もなく、少々物足りないような気がするかもしれません。しかし、イエス キリストを知り、その十字架と復活を理解するために欠かせないことをマルコによる福音書はまとめているのです。
 そして、イエス キリストを知る際に鍵となるのが「神の子」ということなのです。救い主キリストとして神が遣わしてくださったのは、ほかならぬご自身のひとり子であったことをこの福音書は証ししようとしています。天使が遣わされたり、新しい指導者が人の中から立てられたのではなく、わたしたちを救うために神の子が人となってこの世に来てくださった。そしてあろうことかその命まで懸けてくださった。
 神はわたしたちに対して本気でした。本気で愛してくださり、本気で救ってくださいました。神は代わりのないひとり子を遣わしてくださいました。イエスは神の栄光を惜しまず、そしてご自分の命さえも惜しまれませんでした。
 少し砕けた仕方で言うならば、「そんじょそこらのいい知らせとは訳が違う。神の子イエス キリストの福音だ。さあ、その福音を語り始めるからよく聞いてくれ」とこの福音書は最初の一文でもって語っているのです。

 今から語り始める、ここから始まる、だから「福音の初め」なのです。ですが、この「初め」というのはこれから始まるというだけでなく、この福音書全体を指しているのです。福音書に書いたこと全部、十字架と復活に至るイエス キリストのすべてによって良い知らせ、福音は始まった。それが今に至るまで続いているんだよ、ということを表しているのです。

 (新共同訳聖書は、この1節を8節までのまとまりに入れて、それに「洗礼者ヨハネ、教えを宣べる」という小見出しを付けてしまっています。確かにこのように考える人もいるのですが、しかしこれではこの1節の大切な意味を狭くしてしまうように思います。元々の原文にはこのような小見出しは付いていませんし、とても大切なことをこの福音書は最初の1節で語っていると思うのです。今から良い知らせが始まるよ、そしてこの福音書に書いたイエス キリストによって福音が始まり、それは今も続いているんだよ、ということをこの最初の文は示しているのだと思います。)

 最初に福音という言葉が元々聖書の言葉ではなく、普通に使われる言葉であったことを話しました。神の救いの業は、ごく普通の言葉を神の恵みを指し示す言葉へと変えられました。これは単に福音という言葉だけのことではありません。普通のわたしたち一人ひとりを神の恵みを証しする神の民、キリスト者へと変えてくださいます。イエス キリストの福音は、単なる知らせ、ニュースではなく、わたしたちを本当に罪と死から救い出し、新しい神の民、キリストと共に新しい命に生きる者と変えるものです。
 単に暦が改まるだけでなく、キリストの福音によって、わたしたち自身が新しくされるのです。聖書は告げます。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(2コリント 5:17)
 神の子イエス キリストの福音を、神が語り告げられます。わたしたちを救うイエス キリストの良き知らせがわたしたち一人ひとりの上に今も新たに始まるのです。

 

ハレルヤ

ヘブル人への手紙 2:9〜18

2017年12月24日(日)主日礼拝
聖書箇所:ヘブル人への手紙 2:9〜18(口語訳)

 

 きょうはイエス キリストの誕生を祝うクリスマスの礼拝です。
 ですが聖書を見ても、キリストが12月25日に生まれたとは書かれていません。教会がキリストの誕生を祝うのは、神の言葉が真実であることを覚えるためであり、救いの完成を仰ぎ見るためです。神はわたしたちを救うために御子を救い主としてお遣わしになられた。神は救いの約束を実現してくださった。そのことを覚え、これからも神の言葉は真実であり続けることを確認するために、教会はクリスマスを祝うのです。
 今年の待降節は、創世記のアブラハム、イサク、ヤコブの話を聞いてきました。キリスト誕生の千年以上前からキリストの到来が示されており、アブラハム、イサク、ヤコブに起こった出来事は、イエス キリストにおいて成就したことを確認してまいりました。
 きょうはヘブル人への手紙を読みました。ヘブル人というのは、イスラエルのことです。この手紙は、イエスは誰なのかを伝えようとしている手紙です。旧約の民イスラエルの人たちに対して、イエスこそキリスト救い主であることを伝えようとしている手紙です。

 9節には「イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光とほまれとを冠として与えられた」とあります。イエスは十字架に掛けられて地上の生涯を終えられました。聖書はこのイエスの死によって、神は罪人を贖われたと理解します。2コリント 5:21には「神はわたしたちの罪のために、罪を知らない方を罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となる」ためであると述べています。そしてこの死の故に、イエスは栄光と誉れとを冠として与えられたと告げます。聖書は、キリストの十字架は、神の偉大さと尊さを表すものであったことを伝えています。遙かな昔から伝えられてきた神の約束、神がわたしたちを救ってくださるという約束がキリストの十字架によって実現されたというのです。
 そしてこの出来事が起こったのは「彼(キリスト)が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった」と語ります。キリストの死は、すべての人を罪から救うための神の恵みであったというのです。ここで言う神の恵みは、すべての人を救うことを指します。すべての人を救うために、キリストはすべての人のために死を味わわれたのです。
 そして10節では「万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君を、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであった」と語ります。ここで「彼にふさわしいこと」というのは、キリストにしかおできにならないことだった、という意味です。罪を贖うための苦しみを担うのは、神の御子イエス キリストにしかできないことであった、ということです。

 聖書が告げる罪は、関係を破壊し、絆を断ち切ります。しかし神の救いの御業は、関係を回復し、絆を新たに創造します。罪から救うというのは、この関係の回復です。神と人との関係、人と人との関係、人と世界との関係、すべての関係を回復し、共に生きる絆を新たに創造するのです。「きよめるかたも、きよめられる者たちも、皆ひとりのかたから出ている。それゆえに主は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない。」キリストの救いの御業は、新たに神の家族という関係を造り出してくださいました。「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つ」(ガラテヤ 3:28)とされたのです。
 イエスは、罪によって破壊され失われてしまった絆を、ご自分のなす救いの御業によって「キリスト・イエスにあって一つ」としてくださり、神の家族としてくださったのです。

 イエスは「死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つため」(14, 15節)に来られました。そしてイエスはご自身の御業により「神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねば」(17節)なりませんでした。「主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができる」(18節)のです。
 試練の中にあるわたしたちを救うために、キリストは人となられたのです。あらゆる点においてわたしたちと同じになり、肉体を取って人となられたのです。

 救いを説明するのに、溺れている人に神が手を差し伸べられるというたとえが使われることがあります。このたとえで言われるのは、一人ひとりの前に神の救いの御手が差し出されている。その神の御手をつかむことが大事だということです。しかしこの譬えで言われているように、キリストは安全な岸辺から手を差し伸べられたのではありません。キリストは試練のただ中に来て、試練を受けて苦しまれました。そして苦しまれたからこそ、試練の中にある者、苦しんでいる者の気持ちもつらさも悲しみも分かっていてくださり、そこからわたしたちを助け出してくださるのです。今言いました譬えで言いますならば、キリストは手を差し伸べておられるというよりも、罪に溺れ苦しむわたしたちのところへ飛び込んできてくださったのです。苦しみも痛みもその身に負って、救い主となってくださいました。イエス キリストは、わたしたちを「見放すことも、見捨てることもしない」(ヨシュア 1:5)ただ一人の真の救い主なのです。イエス キリストこそインマヌエルの主、「神我らと共にいます」(マタイ 1:23)お方なのです。
 神はご自身のひとり子イエス キリストによって、救いの約束を成就してくださいました。イエス キリストにおいて、神はご自身の真実を証ししてくださったのです。

 最初に言いましたように、教会がクリスマスを祝うのは、神の言葉が真実であることを覚えるためであり、その真実に支えられ導かれて、救いの完成を仰ぎ見るためです。今年は、創世記からアブラハム、イサク、ヤコブの話を聞いてきました。神は3,000〜4,000年の時を掛けてご自分の真実を証しし続けてきました。そして、今年も神の真実を聞く時を与えてくださったのです。聖書は語ります。「こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。」(2ペテロ 1:19)

 イエス キリストこそ、インマヌエルの主、わたしたちと共にいてくださる真の救い主なのです。

 

ハレルヤ

創世記 28:1〜22

2017年12月20日(水)祈り会
聖書箇所:創世記 28:1~22(新共同訳)

 

 アブラハムの孫、ヤコブの話です。
 神の祝福がどうしてもほしかったヤコブは、神の祝福を軽じていた兄エサウの隙をついて、神の祝福を奪ってしまいました。自分で神の祝福を軽んじ、レンズ豆の煮物と長子の権利を交換し譲ってしまっていたのに(25:27~34)、エサウは、父イサクが死んだら弟ヤコブを殺してしまおうと考えていました(27:41)。エサウの思いを知った母リベカは、父や兄のいるパダン・アラムにヤコブを逃がし、同じ信仰、習慣を共にできる妻をめとらせようとしました。

 ヤコブは、ベエルシバを立って、ハランへ向かいます(28:10)。アブラハムとは違う仕方でしたが、ヤコブも住み慣れた所を離れて旅立ちます。逃げて行く途中、ヤコブは石を枕にして野宿をしました。ただ、この夜の野宿は特別でした。
 その夜、神は夢の中でヤコブに語りかけられました。天に達する階段を御使いたちが上り下りしていた。この夢は、天にいます神がわたしたちの手の届かない遥か高いところに留まっておられる方ではなく、地上に下って、人間と交わりを持ち、人間を導く方であることを示しています。神は言われます。「見よ、わたしはあなたと共にいる」「わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」(28:15)

 イエス キリストは、それをご自分を示すものだと言われました。「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう。」(ヨハネ 1:51)
 ヤコブは、眠りから覚めて「これは天の門だ」と言いましたが、イエス キリストはご自分が天の門であると言われました。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。」(ヨハネ 10:9)ヤコブに示された約束は、イエス キリストによって成就したのです。

 人間は、自分の力で神を知ることはできなません。神を知ることは、ただ神ご自身が働きかけてくださるときにできることです。
 ヤコブは眠りから覚めて、「まことに主がこのところにおられるのに、わたしは知らなかった。」と告白しました。ヤコブはこの出来事によって、生ける真の神に出会って、恐れてました。祖父アブラハムを召し出し、導かれた神、父イサクの生涯を守り導かれた神と出会い、神を知ったのです。神を知って、ここからヤコブの新たなる歩み、新しい信仰生活が始まりました。

 ヤコブは今、兄の怒りを逃れて父母を離れ、故郷を離れて歩みます。神が与えてくださったのは、神との確かな絆。神がいつも共にいてくださるということ。これが本当に大事だと知るために、彼のこの旅がありました。ヤコブは翌朝、神に誓いを立てます。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」(28:20~22)
 ヤコブは「神がわたしと共におられ・・主がわたしの神となられるなら・・」と願います。それが自分にとってなくてならないことだとヤコブは気づいたのです。
 そしてヤコブは、そこをベテルと名付けました。ベテルとは、神の家という意味です。

 神は、神と共にあることを最も大事なこととして、イエス キリストにおいて成就されました。イエスの誕生に先立って天使は告げます。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」(マタイ 1:23)

 わたしたちを罪から救い出し、神と共に生きる者としようという神の御心は、千年の時を遙かに超えてもいささかも揺るがず、成就されました。その神の真実は、さらに二千年の時を経ても変わらないのです。
 クリスマスは、本当に信じることのできる神の真実を知るとき、神はその真実を御子イエス キリストによって証しされたことを確信し明らかにするときなのです。

ハレルヤ

創世記 22:1〜19

2017年12月17日(日)主日礼拝  
聖書箇所:創世記 22:1〜19(口語訳)

 

 アブラハムが神の召しを受けて旅立ったのは75歳のときでした。この時、神はアブラハムに対して「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう」と約束されました。しかし、アブラハムには子どもがありませんでした。何年か過ぎて、再び神がアブラハムに対して「あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」と約束されたとき、アブラハムは「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はわたしの家の奴隷(ダマスコのエリエゼル)であるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか」と問いかけました。その時、神はアブラハムを外に連れ出して「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい。あなたの子孫はあのようになるでしょう」と言われました。それから20年近い歳月が過ぎて、アブラハム100歳、妻のサラが90歳のとき、神は約束の子イサクをお与えになりました。

 神がこの約束を果たされるまでに、アブラハムは諦めて自分の家の奴隷を跡継ぎにと思ったこともありました。86歳の時にはサラのつかえめであるハガルによって子をもうけ、跡継ぎとしようとしたこともありました。アブラハムにとって、この神の約束を信じて生きるということは簡単なことではありませんでした。それだけに、約束の子イサクが与えられた時、アブラハムはどれほど嬉しかったことでしょうか。

 ところがある時、神はアブラハムに命じられます。「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい。」燔祭というのは、焼き尽くす献げ物のことです。
 何という言葉でしょうか。待ち続け、やっと与えられた子ども、愛するひとり子を焼き尽くす献げ物としてささげよとは。

 1節に「神はアブラハムを試みて」とあります。一体何を試そうというのでしょうか。もう十分アブラハムの信仰は分かっているではありませんか。ここまで神の言葉を信じて従ってきたのですから。
 しかし更に驚くことに、「アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた」のです。
 アブラハムは迷わなかったのでしょうか。これは本当に神の言葉かと疑わなかったのでしょうか。悩まなかったのでしょうか。しかし聖書はそのことについては何も記しません。アブラハムが神を信じ従ったことだけを聖書は伝えています。

 旧約を読んでいきますと、自分の子どもを犠牲としてささげるというのはカナンの地の異教の風習で、神はこれを厳しく禁じています。例えばレビ記18:21には「あなたの子どもをモレクにささげてはならない。またあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である」とあります。ですから1節に書かれていたように、明らかに神はアブラハムを試されたのです。
 神が試されるとき、それは「よく分からないから試してどれほどのものか見てやろう」という試みではありません。神はアブラハムの信仰は知っておられます。神の試しは、信仰を前進させるための試みなのです。けれど、神はこれ以上アブラハムの信仰をどう前進させようというのでしょうか。神の命令通りにすれば、アブラハムは子孫を失い、未来をなくしてしまいます。しかし、神はこれまで以上に未来はアブラハムの期待や予想の中にあるのではなく、神の御手の中にあることを信じることを求めておられます。信仰は、神の約束に対して「信じます。アーメン」と応えることです。しかし、それは決して小さな事柄ではなく、人生のかかった大事な応答なのです。
 わたしたちにとって試みの時とは、神の求めよりも容易で、より要求の少ないものが非常に魅力的に見える時なのです。イザヤ 55:8には「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると/主は言われる」とあります。自分の思いとは異なるけれども、神が示される道を選び取るのが信仰です。
 試みは、神の御心と自分の考えとの間にある深刻な葛藤を明らかにします。試みは、我々自身の信仰が、本当に神にのみ依り頼む信仰があるのかどうかを問いかけます。旧約の詩人は語ります。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる。」(詩編 37:5, 6)神はご自分に全き信頼を置くことをアブラハムに求められたのです。

 約束の場所が見えてきたとき、アブラハムは息子イサクと二人で神の前に進み出ていきました。アブラハムは燔祭に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を持ちました。二人は一緒に歩きました。イサクはアブラハムに「父よ」と呼びかけると、アブラハムは「子よ、わたしはここにいます」と答えました。イサクは尋ねました。「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか。」アブラハムは答えます。「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう。」二人は一緒に歩いて行きました。

 アブラハムは「神が備えてくださる」とイサクに答えたとき、未来が見出し得ないような状況の中にあっても、神の約束の中に生きる道が開かれてくる、それは自分が生きる道というだけでなく、イサクにとっても生きる道が開かれてくることを信じていたのです。行く手に死しか見えない中で、なお神が命の神であることを信じていたのです。

 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せました。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとしました。そのとき、主の使いが天から「アブラハムよ、アブラハムよ」と呼びかけました。彼が「はい、ここにおります」と答えると、御使いは言いました。「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った。」

 アブラハムは神の試みを克服しました。自分を召し導いてこられた神の約束の中に未来があり、生きる道があるその恵みの中にアブラハムは立っていました。アブラハムは目を挙げて見ると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていました。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげました。アブラハムが信じたように、神ご自身が二人が生きるための献げ物を備えていてくださいました。そこでアブラハムはその場所をアドナイ・エレ(主は備えてくださる)と名付けました。そして、神の民の間では今日でも「主の山に、備えあり」と言われるようになったのです。「主の山に備えあり」とは、神こそが我々の未来を開かれるという信仰の告白なのです。

 神はアブラハムに対し、未来の希望であるイサクをささげ委ねるように求められました。アブラハムに愛するひとり子をささげよと命じられた神は、実はご自分が愛するひとり子をささげる決意でおられました。アブラハムが信じた果てに見出した一匹の雄羊、まさにそれこそが神に従う二人、そしてわたしたちが生きるために神ご自身が備え与えてくださったイエス キリストを指し示すものです。
 イエス キリストもまた、神の言葉に従い、十字架の上で自らの命をささげきるまで従われました。神に従い、未来を神の御手に委ねたその果てに、神は復活の命を与え、命の道を開かれました。神は、わたしたちの生きる道、そしてわたしたちの命そのものを備えていてくださいます。神ご自身こそ、わたしたちの救いのために愛するひとり子を惜しまれない方であり、わたしたちを永遠の命へと導かれる方なのです。

 クリスマスは、神がご自身のひとり子をささげて、わたしたたちが永遠の命に至る未来を開かれた恵みを祝う時です。

ハレルヤ

 

創世記 15:1〜21

2017年12月10日(日)主日礼拝
聖書箇所:創世記 15:1〜21(口語訳)

 

 神の召しに応え、神の約束の言葉を頼りとしてアブラムは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、旅立ちました。齢すでに75歳でした。神の約束の言葉には、あなたを祝福の基とするという大きな恵みがありました。
 それからどれほどの時が経ったかは判りませんが、再び神の言葉がアブラムに臨みました。神は言われます、「アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」。神が盾となって守ってくださる。なんと心強いことでしょうか。全能の神が盾となって共にいてくださるのであれば、もはや何も恐れることはありません。それに、神は以前の約束を忘れてはおらず、「あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」と再び約束してくださいました。

 しかし、アブラムはそのような神の言葉を聞いても素直に喜ぶことができません。アブラムは神に向かってつぶやきます。「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか。あなたはわたしに子を賜らないので、わたしの家に生まれたしもべが、跡継ぎとなるでしょう。」アブラムは神の約束を信じて旅立ちました。神は「わたしはあなたを大いなる国民とする」と言われました。しかし、依然としてアブラムには子がなく、彼の人生の終わりの日は近付いて来ています。彼は未来に希望を見ることができないのです。子供がいないということは、単に跡継ぎがいないということに留まらず、神の約束に疑いを持たずにはいられないということまで引き起こします。

 この時彼の心には後悔もあったことでしょう。もし、彼が親族のいる土地に留まっていたならば、彼は血の繋がりのある者を跡継ぎに迎えることができたことでしょう。けれど、今彼は自分の家で生まれた奴隷を跡継ぎにしなければならないのです。
 神の言葉を信頼し、その召しに応えて歩んできたのに彼は今、約束の祝福を手にするどころか未来に対して諦めを抱いているのです。

 しかし、神はアブラムのつぶやきに対してこうお答えになりました。「この者はあなたの跡継ぎとなるべきではありません。あなたの身から出る者が跡継ぎとなるべきです。天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい。あなたの子孫はあのようになるでしょう。」神の答えにためらいはありません。神の約束は変わらないのです。
 アブラムは主を信じました。自分の目に見えるこの世の現実はどう考えても未来に希望の持てるものではありません。100人が100人、このアブラムの置かれている状況にあったなら希望を持つことができないでしょう。しかし、この絶望的な状況を前にして全く変わらない神の御言葉により、彼は肉なるものに目を向けるのを止めました。アブラムは今、揺らぐことのない神の約束によって神御自身に目を向けたのです。そして、彼は神を信じたのです。無から全ての被造物を造られた神を、今目の前にある数え尽くすこともできない星々を造られた神を彼は信じたのです。希望を持つことができず、疲れ果てている今を、希望と喜びに満ちた未来へと、神はその御手をもって造り変える創造の御業をなしてくださる、と彼は信じたのです。

 アブラムは特別な人間ではありません。世にある信仰者は皆彼と同じ失望を経験します。どうしても聖書で言われているような祝福を受けているとは思われず、自分の置かれている状況や自分自身の持っている力を顧みるとき、諦め・失望を感じます。これはこの罪の世で生きる限りわたしたちが必ず経験する事柄です。イエス キリストも弟子たちに対して何度も「信仰の薄い者たちよ」と言われ、「なぜ信仰がないのか」と問われました。救い主が一緒にいてもわたしたちはこの弱さを消し去ることはできないのです。
 けれども、そのような弱さに囚われてしまう必要はありません。神はそのようなわたしたちの弱さをわたしたち以上によく知っていてくださり、わたしたちをその弱さから救い出すために繰り返し語ってくださるのです。そして、その神の言葉によってアブラムは諦めの中から創り主である主を信じたのです。無から全てを造りだし、自分のこの望みを持ち得ない状況をも喜びに満ちた未来へと創り変える創造主として信じたのです。そして、主はこれをアブラムの義と認めてくださいました。

 わたしたちの望みは神から来ます。わたしたちが望み得ないとき、神がそこに望みを与えてくださいます。その神が与えてくださる希望を受け入れ、神を信じる者を神は義と認めてくださるのです。わたしたちの内に義なるものがあるのではありません。わたしたちに対する神の限りない愛を信じ、神に依り頼んで生きる者を神はその御手に抱き止めてくださるのです。
 神はなおもしるしを求めるアブラムに対して、神の真実を指し示すしるしを与えてくださいました。
 神の言葉を信じて待つアブラムのために暗闇の中、アブラムが深い眠りに襲われたとき、主はアブラムと契約を結ばれました。この契約の儀式が表すのは、約束が命をかけたものであることを表しています。それは遙かな時を経て、イエス キリストの十字架において、神がアブラムとの契約を成就されたことを知るのです。神は御子を与え約束を成就されました。文字どおりイエス キリストは、自らの肉を裂き、血を流して、命を掛けてわたしたちを死から救い出し、永遠の命へと導いてくださいました。
 神はお語りになります。「あなたはよく心にとめておきなさい。あなたの子孫は他の国に旅びととなって、その人々に仕え、その人々は彼らを四百年の間、悩ますでしょう。しかし、わたしは彼らが仕えたその国民をさばきます。その後かれらは多くの財産を携えて出て来るでしょう。」これは出エジプトを指しています。アブラム自身が経験することのない事柄です。なぜそれを心に留めておかなくてはならないのでしょうか。それは神が時を貫いてご自身の真実を果たされるお方であることを知るためです。
 ですから、神はわたしたちに待つことをお求めになります。聖書はそれを繰り返し語ります。「主を待ち望め 雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。」(詩篇 27:14)「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。」(ハバクク 2:3)
 信仰にとって大切なことの一つは、待つこと、神を信じて待つことなのです。待つことを通して、神は信じて生きる信仰を育まれます。神はわたしたちに待つことを求め、それに真実をもって応えるお方なのです。

ハレルヤ