聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

創世記 12:1〜9

2017年12月3日(日)主日礼拝  
聖書箇所:創世記 12:1〜9(口語訳)

 

 きょうは待降節第1主日です。教会の暦は、きょうから新しくなり待降節、キリストの誕生を待つ季節となりました。
 今年は、創世記12章以下のアブラハムの物語、ヘブル人への手紙、マルコによる福音書を通して、過ごしていきたいと思います。
 きょうは創世記12:1からです。アブラハムはまだ改名前で、アブラムと呼ばれていたときの話です。

 主はアブラムに言われました。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。」
 神はアブラムを召し出されます。キリスト教では、信仰を持って神に従う時「神に召された。召命を受けた。」と言います。信仰は、信じる者が勝手に信じる内容を決めるのではなく、神が語りかけられる声を聴いてその声に従うのです。信仰は信じる者が主になるのではなく、語りかけ、召し出される神が信仰の主なのです。
 神の召しは「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。」というものでした。神は、住み慣れた土地、これまで築き上げてきた様々な関係を捨てて、神が示す導きに従って歩み出すように命じられました。これは、わたしたちを大きな不安に陥れます。わたしたちは目に見えるもの、目に見えないものも含めていろいろな意味で豊かであることに安心を覚えます。貧しくなることを求めるのではなく、物質的・精神的に豊かになっていくように努めています。その様々な豊かさによって自分自身が養われて益を得るように求めています。しかし、神は自分が大事にしてきたこと、育み築いてきたこと、その一切を捨てて従うように求められるのです。安心や自分の益となるものを、自分が持ち得るものの中に求めるのではなく、決して自分では所有し自分のものとすることのできない神ご自身の中に自分の幸いを見出し、自分の生きる道を見出すように、神はお求めになるのです。このことは究極的にはイエスのこの言葉へと向かっていきます。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。」(マルコ 8:35)信仰とは、神以外のものに依り頼もうとする思いを捨て、神に支えられ、神が与えてくださるものを受けようとすることなのです。
 ですから、キリスト者にとっては自分の願いの実現が大事なのではなく、神の御心は何なのか、神はどこへと召しておられるのかが重要なのであり、それを聴こうとして神の声に心を向けることが大切なのです。
 神のこの召しには、約束が伴っていました。「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される。」
 神の約束は、祝福の約束でした。アブラムから遥かに時を経た時代に生きるわたしたちは、神の召しに応えたアブラムに対する神の約束が真実であったことを知っています。アブラムは確かに大いなる国民となりました。アブラムが従ったことから神の民イスラエルが生まれました。アブラムの信仰に連なる神の民は今や数えることができません。アブラムの名は信仰の祖として4000年の時を経た今も忘れられることはありません。そして最も大切な約束は、祝福の基となるという約束です。神に従う者と共に神はあってくださり、神に従い生きる者を通して神は祝福を地に注がれるのです。そしてついには、アブラムの子孫、イスラエルの民の中にご自身の御子イエス キリストをお遣わしになり、「地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」という約束を果たされたのです。
 アブラムは神の召しに従い、様々なものを捨てました。しかし、アブラムは神の御手から彼一人だけではない大いなる祝福、そして何よりも大切な命の祝福を受けたのです。

 アブラムは、主の言葉に従って旅立ちました。アブラムは、ハランを出発したとき75歳でした。アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入っていきました。
 アブラムは何も言わず、黙って神に従いました。神の声をしっかり聴いて、それに従いました。
 ところで、この聖書の箇所の直前11章31節を見ますと、アブラムの父テラはカルデアのウルを出てハランへとやってきました。テラが何もないところからようやく築き上げてきたものがそこにはあったはずです。また11章30節を見ますと、アブラムの妻サライ不妊の女でアブラムには子どもがいなかったとあります。神が大いなる国民にするなどと言われても、それを信じられるような状況は何もありませんでした。アブラムがカナンを通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来たとき、主はアブラムに現れて、「あなたの子孫にこの土地を与える。」と言われました。しかし、その地方には既にカナン人が住んでいたのです。「あなたの子孫にこの土地を与える」などと言われても、アブラムに子どもはなく、その土地には既に住んでいる人たちがいます。アブラム自身、既に75歳です。一体、何をどう見たら神の言葉が真実だと思えるのでしょうか。

 アブラムは肉の目に見えるものに依り頼むことをしませんでした。自分の中で将来の計算を立てることをしませんでした。アブラムは自分に語りかけてくださった神を仰ぎ見ていました。未来は自分の手の中にではなく、神の御手の中にあることを信じていました。そしてそれこそ、神がアブラムに、すべての神の民に求めておられることであります。アブラムは見えるものに振り回されて不安に悩むのではなく、神を呼び求め、礼拝しました。アブラムは彼に現れた主のために、シケムに祭壇を築きました。そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼びました。
 アブラムはひたすら神に依り頼み、神と共に生きることを証ししました。アブラムを通して、神ご自身こそ何物にも替え難い恵みであり、祝福であり、命であることが証しされました。そしてアブラムがなした証しを、神はイエス キリストにおいて成就されたのです。イエスは、神の御心により神としての栄光を捨てられました。人となってアブラムの子孫となられました。地上で目に見える報いを受けられることなく、ただひたすらに神と共に歩まれました。命までも失われ、すべてが虚しかったかのように見えましたが、神からすべてを受け、死から甦り、栄光を受けられ、すべての人の祝福となられました。

 アブラムに語られた神の言葉は真実でした。その召し、その約束に、神はご自身の御子の命をかけられるほどに真実でした。朽ちていく目に見えるものや変わりいくこの世がわたしたちを救うことはありません。神の真実がわたしたちを救うのです。
 神の言葉に聴き従う者は幸いです。アブラムを支え導いた恵み、イエス キリストにおいて成し遂げられた恵みがその人を包むでしょう。

ハレルヤ

 

聖句で辿る聖書 69

出エジプト記
16章 17, 18節(新共同訳)

イスラエルの人々はそのとおりにした。ある者は多く集め、ある者は少なく集めた。
しかし、オメル升で量ってみると、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた。


 16:2からイスラエルモーセに文句を言う。
 「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」
 助けを求めて救ってもらったのに、自分の期待どおりでないと不平を言い始める。
 人は未来に不安を抱いているから、余裕を持ちたいと願うが、神は必要な分を与え、日々神に依り頼むように訓練される。

創世記 21:1〜8

2017年11月26日(日)主日礼拝 宇久井伝道所(14:00)
聖書箇所:創世記 21:1〜8(口語訳)

 

 「主は、さきに言われたようにサラを顧み、告げられたようにサラに行われた」と聖書は語ります。

 18章で、主はアブラハムに現れました(18:1)。このとき主は三人の人となって、アブラハムのところに来られました。アブラハムは何故かこの三人が主であると気づきます。アブラハムは彼らを迎え「わが主よ、もしわたしがあなたの前に恵みを得ているなら、どうぞしもべを通り過ごさないでください」と言って彼らをもてなしました。食事の後、一人が「来年の春、わたしはかならずあなたの所に帰ってきましょう。その時、あなたの妻サラには男の子が生れているでしょう」(18:10)と告げます。
 サラは心の中で笑って言いました、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか」。その時、主はアブラハムに言われます「なぜサラは、わたしは老人であるのに、どうして子を産むことができようかと言って笑ったのか。主にとって不可能なことがありましょうか。来年の春、定めの時に、わたしはあなたの所に帰ってきます。そのときサラには男の子が生れているでしょう」。その言葉を聞いて「サラは恐れ、これを打ち消して答えます『わたしは笑いません』。けれど主は言われます『いや、あなたは笑いました』。」(18:12~15)

 そして神の言葉どおり「サラはみごもり、神がアブラハムに告げられた時になって、年老いアブラハムに男の子を産」みました。アブラハムはこの子をイサクと名付けます。その後「アブラハムは神が命じられたように八日目にその子イサクに割礼を施し」ました。「アブラハムはその子イサクが生れた時百歳であった」と聖書は告げます。そしてサラは言います「神はわたしを笑わせてくださった。聞く者は皆わたしのことで笑うでしょう」。
 新共同訳聖書はここをこう訳しています。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。」 イサクという名が「笑い」という意味の名前だということが分かります。
 ここは、面白くて笑うとか、楽しくて笑うではなく「こんなことがあるのか」という驚きの笑いです。
 ですからサラは「サラが子に乳を飲ませるだろうと、だれがアブラハムに言い得たであろう。それなのに、わたしは彼が年とってから、子を産んだ」と言います。

 おそらく人は、サラがイサクを「わたしの息子です」と紹介し、周りの者が「養子ではなく、本当にサラが産んだ子です」と証言しなければ信じないような事柄です。
 しかし聖書は、信じられないような驚きをわたしたちに告げます。神のひとり子が救い主となるため人となって、しかも幼子となって世に来られた。その救い主がわたしたちの罪を負って十字架に掛かられた。さらに三日目に復活された。この救い主を信じる者は罪を赦され、永遠の命に入れられる。神の国に入れられる。どれもそんなことあるかと突っ込みどころ満載です。神の約束を聞いたときサラが笑ったと同じように笑うより他はない事柄です。

 わたし自身、理科の教師になろうとしていた高校生の時、神を信じている人をばかにして笑っていました。しかし今は、驚くべき神を信じている者です。救いの完成、神の国の到来を信じる者です。皆さんも驚くべき神の御業を信じてくださるでしょうか。

 聖書は、驚きに満ちています。笑ってしまうほどの驚きに満ちています。神の御業はわたしたちの思いを超えています。わたしたちはその驚くべき神の証人として召されました。皆さんが、この驚くべき真の神に出会い、その御業を経験し、たくさん驚き、たくさん笑ってくださることを願っています。

ハレルヤ

ルカによる福音書 22:39〜46

2017年11月19日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ルカによる福音書 22:39〜46(口語訳)

 

 最後の晩餐が終わり、ここから場面が変わります。「イエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれると、弟子たちも従って行った。」
 この場面は「ゲツセマネの祈り」として知られているところです。ところがこのルカによる福音書には「ゲツセマネ」という言葉が出てきません。このルカによる福音書は、ローマに住む異邦人のために書かれたものなので、エルサレムの細かな地名は省略されたのではないかと思われます。加えて、ルカによる福音書のこの場面は、マタイやマルコによる福音書のゲツセマネの祈りの記事よりも簡潔に記されています。そのため、この場面のテーマがよりはっきりと示されています。
 結論から言いますと、この場面のテーマは「祈り」です。始めにイエスは言われます「誘惑に陥らないように祈りなさい」。そしてイエスご自身の祈りが記されます。最後に「誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」というイエスの言葉でこの場面が締めくくられます。このように、ルカはキリスト教の「祈り」について伝えるために、この場面の記述を簡潔にして「祈り」を際立たせているのです。

 イエスは「いつものように」オリブ山に行かれました。21:37には「昼のあいだは宮で教え、夜には出て行ってオリブという山ですごしておられた」とあります。イエスはいつものように、いつもの場所へ行かれました。それで、ユダはイエスを捕らえる者たちを案内することができました。
 いつもの場所に着くと、イエスは弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言って、少し離れた石を投げて届くほどの所でひざまずいて祈られました。
 「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。」
 この杯というのは、これから負われる十字架のことです。イエスは神の子だから何の苦もなく十字架を負われたのではありません。罪人の救い主として真に人となられたイエスにとって、十字架はできることなら取りのけてほしいものでした。十字架は罪の裁きです。罪故に神に見捨てられることです。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34、マタイ27:46)と叫ばずにはいられない苦しみ、悲しみ、それが十字架です。イエスは真に人となられて、罪人の苦しみ、悲しみを負ってくださいました。

 しかしイエスは続けて「しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」」と祈られました。これは主の祈りの「御心がなりますように」(マタイ6:10)と同じです。イエスは主の祈りを教えてくださっただけでなく、わたしたちと共にこの祈りを祈っていてくださいます。
 そしてこのイエスの祈りは、わたしたちキリスト者、神の民の祈りがどのようなものであるかを明らかにするものです。わたしたちは神に聞いて頂きたい様々な願いがあります。わたしたちはそれを神に祈ります。しかしそのとき、わたしたちは神の御心の成るところに救いが現れることを信じ、ゆべてを神に委ねて「御心がなりますように」と主の祈りの中で繰り返し祈り続けていくのです。
 わたしたちの祈りは、自分の願いを叶えるための祈りではありません。わたしたちのすべてを知って、すべてを益とし、救いをなしてくださる神に、すべてを委ね、御心がなされることを求めていく祈りなのです。

 イエスが祈っておられると「御使が天からあらわれてイエスを力づけ」ました。「イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られ」ました。「そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた」のです。イエスはわたしたちのために、そしてわたしたちと共に信仰の戦いを戦ってくださったのです。信仰の戦いには、神の助けが必要なことを天使の力づけを受けることを通して示し、その助けが確かにあることを示してくださいました。

 そして「祈を終えて立ちあがり、弟子たちのところへ行かれると、彼らが悲しみのはて寝入っているのをごらんに」なりました。
 イエスは「石を投げて届くほどの所で」祈っておられました。どれほどの時間、イエスが祈られたかは分かりませんが、弟子たちはイエスの祈りの言葉を聞き、切に祈る姿を見ていました。だからこうしてイエスの祈りの言葉、その姿が語り継がれ、福音書に記されたのです。弟子たちは、このエルサレムでイエスが苦難を受けると告げられたこと、自分たちのところから去って行くと言われたことを思い返し、深い悲しみに包まれ、悲しみのあまり意識を保ち祈り続けることができませんでした。
 イエスは彼らが眠ってしまっているのをご覧になり、「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」とお語りになりました。

 イエスはこの場面の最初と最後で「祈りなさい」とお命じになられました。ここで「誘惑」と訳された言葉は、22:28では「試練」と訳されています。神と共にあろうとする信仰は、常に試練・誘惑にさらされます。
 そして誘惑に陥らないために「祈りなさい」とイエスは命じます。弟子たちが寝てしまっているのをご覧になった後には「起きて祈りなさい」と言われました。
 ここで「起きて」と言われた言葉は、聖書では「復活する、よみがえる」という意味で使われる言葉です。ですからここの「起きて」は霊的に目覚めていること、罪の中で眠っている、死んでいるのではなく、神の御前に立っていることを表します。そして神に語りかけ、神の声を聞くのです。

 祈りは神と共にあるためになくてはならないものです。イエスエルサレムに来られて最初に宮清めをし、「わが家は祈の家であるべきだ」(19:46)と言われたのも、神の御前に出る神殿において、なくてならぬものが失われていたからです。神を信じる、神と共に生きるということには、祈るということが含まれているのです。
 十字架を前にして言われたイエスのこの命令を軽んじてはなりません。エペソ人への手紙も「絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい」(6:18)と命じています。
 日本キリスト教会信仰の告白の中には「信徒を訓練し」という文言があります。そして教会に託された信徒の訓練の中で、最も中心にあるものの一つが祈りです。神を信じ、神の助けと導きを求め、祈る。祈りによって神の御前へと立ち帰り、イエスに倣って、神に委ね、御心がなされ救いがなされることを信じて祈る。そのように祈りつつ生きる神の民へと訓練するのです。遣わされている所で一人でも祈る。兄弟姉妹と共に祈る。そして礼拝においても祈る。そのような神の民が育まれるように教会に訓練が託されているのです。教会生活の中にある祈る機会を、是非大切にして頂きたいと思います。単なる聖書の知識ではなく、活ける真の神と共に生きる信仰には、祈りはなくてならぬものなのです。

 祈りは、他でもなくわたしたち自身のために与えられたものであり、神と共に生きるために与えられた信仰の武器、そして恵みの賜物なのです。

 

ハレルヤ

聖句で辿る聖書 68

出エジプト記
15章 25, 26節(新共同訳)

その所で主は彼に掟と法とを与えられ、またその所で彼を試みて、言われた。
「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、わたしがエジプト人に下した病をあなたには下さない。わたしはあなたをいやす主である。」


 掟と法は、救いの後に与えられる。
 救われたからこそ、神と共に歩むために、神は民に戒めを与える。