聖書の言葉を聴きながら

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「祝福の基となる」(ルカによる福音書24:50~53)

 「祝福の基となる」

 

 2021年5月16日(日) 主日礼拝  

聖書箇所:ルカによる福音書 24:50〜53(新共同訳)

 

 ルカは、キリストの昇天で福音書を閉じます。

 実は、キリストの昇天に関しては、ルカが一番関心を持っています。

 マルコ福音書16章19節の最後のまとめのところで「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。」とありますが、昇天については一言で終わります。  

 書簡では、エフェソの信徒への手紙とテモテへの手紙1の2箇所に書かれています。エフェソの信徒への手紙4章10節では「この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。」と書かれており、テモテへの手紙1の3章16節では「キリストは肉において現れ、/“霊”において義とされ、/天使たちに見られ、/異邦人の間で宣べ伝えられ、/世界中で信じられ、/栄光のうちに上げられた。」と書かれています。どちらもキリストが天に上げられた事実を語りますが、天に上げられる様子を記してはいません。

 

 ルカによる福音書だけが、キリストが天に上げられる様子を記しています。しかも福音書に続く使徒言行録でも、キリストの昇天から始めています。福音書で記したからその続きからではなく、さらに詳しくキリストの昇天を描いて弟子たちの歩みを書いていきます。

 

 さて福音書を見ていきましょう。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」

 このベタニヤは、イエスの公生涯に関係の深い土地で、オリブ山の麓にあり、ヨハネによる福音書11章18節にあるように、エルサレムからも近く、イエスが復活させたラザロ、その姉妹マルタとマリヤの住んでいた村です。

 イエスは弟子たちをそのベタニヤ近くまで連れて行き、彼らを祝福されました。

 

 ルカによる福音書を見ますと、復活と召天は同じの日の出来事のように思えます。しかし、使徒言行録を読むと違うことが分かります。使徒言行録1章3節 には「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」とあります。

 福音書を読む際に覚えておいて頂きたいのは、福音書がまとめられたのは、イエスの死と復活、そして昇天から40年ほど経ってからです。イエスが十字架に掛けられたのは紀元30年頃、福音書が編纂され始めたのは紀元70年頃と考えられています。自分のもとに集まってきた伝承に基づいて、編者はそれぞれイエスが救い主であることを証しするために福音書を編纂しました。

 福音書は、現代のわたしたちが考えるような時間的な正確さを求めてはいません。ビデオに録画された映像とは違います。同じ人物が編纂したルカ福音書使徒言行録の昇天の記事を見てみると分かります。福音書だと昇天は復活と同じ日のように思えますが、使徒言行録では40日間あります。福音書は天に上げられるときイエスは祝福をしますが、使徒言行録ではありません。同じ編者であってもこのように違います。イエスが救い主であること、その救いの恵みを伝えるために書く内容が選ばれ書き方が選ばれています。ですから、伝えようとしている内容を受け取ることが大切です。ルカが福音書の最後の場面で伝えようとしているのは「祝福」です。

 

 ルカは、イエスの救い主としての業の締めくくりに「祝福」を記しました。弟子たちを祝福し、祝福しながら天に上げられました。

 礼拝が祝福(祝祷)で終わるのは、このためではないかと思っています。イエスは最後祝福をしてくださいました。しかも祝福しながら天に上げられました。主の祝福は終わることなく、今に至るまでも続いています。だから礼拝の最後は祝福で送り出されるのではないかと思います。

 

 50節に「祝福された」とあり、51節にも「祝福しながら」とあります。どちらもユーロゲオーという単語が使われています。実はもう一箇所このユーロゲオーが使われています。最後53節の「ほめたたえていた」です。

 このユーロゲオーをギリシャ語辞典で引いてみると、「ほめたたえる、祝福を求めて祈る、感謝する、祝福する」とあります。ですから53節は「ほめたたえていた」で正しいのですが、ルカがイエスに対して2度ユーロゲオーを用いて、最後に弟子たちに対してユーロゲオーを用いたのは、祝福を表すためではなかったかと思います。

 

 人は神にかたどって創られ、神に応答する者として創られました。神が語りかけてくださるので、人は神に祈ります。神が恵みを注いでくださるので、神を讃美します。神が救いの神として共にいてくださるので、神を礼拝します。神が創造されるので、人も文学でも音楽でも美術でも創造します。神が愛してくださるので、人も愛します。神が赦してくださるので、人も赦します。神にかたどられて造られた人は、神に応答して神の業に倣って生きていきます。   

 だから、神が祝福してくださるので、人も祝福するのです。神が祝福されるので、人はアブラハムに約束されたように「祝福の基」となることができるのです。祝福は、創造の始めから与えられていた神の恵みです。創世記 1章22節には「神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」」と記されています。ペテロの手紙1 の3章9節では「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」と言われています。

 

 だからルカは、イエスが地上でなされた最後の業が祝福であることを記します。ルカによる福音書は、ローマにいるキリストも旧約の伝統も知らない人々に向けて書かれています。父・子・聖霊なる神が、祝福していてくださることを知らせようとしています。受胎告知と呼ばれる場面を描き、ルカによる福音書1章28節で天使ガブリエルがマリヤに「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と祝福したことを記します。キリストは祝福をもたらすために世に来られました。そして、福音書の最後もキリストの祝福、その恵みに応答して祝福する弟子たちで閉じようとしているのです。

 

 弟子たちがキリストを祝福するなんておこがましい、と思われるかもしれません。多くの人がそう思うからこそ、ユーロゲオーという同じ単語を使っていてもキリストの場合は「祝福」と訳し、弟子たちの場合は「ほめたたえた」と訳されています。けれど、この後使徒言行録も編纂するルカは、キリストの祝福を受けて、弟子たちも祝福する者となり、こうして世界にキリストの祝福が広められていったことを予告しているのではないでしょうか。

 

 わたしたちも、毎週礼拝において祝福によって送り出されています。わたしたちもまた、神の祝福を受け継ぎ、祝福の基として世界に神の祝福を広げたいと思います。是非、お子さんやお孫さん、お友達、また見舞いの際に祝福をして頂きたいと思います。ペテロの手紙1の3章9節にこうあります「祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」

 皆さんが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのです。

 

 聖書は語ります 「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」  と 

 わたしたちは今、神の祝福が満ちあふれ、讃美の満ちるところ、すなわちキリストの教会に導かれているのです。

 

祈ります

 

父なる神さま

 イエス キリストを通してわたしたちに祝福を注いでいてくださることを感謝します。わたしたちを祝福の基とし、キリストに倣って祝福する者としてくださったことを感謝します。どうかわたしたちも代々の聖徒たちと共に祝福していくことができますように。この教会から多くの人たちにあなたの祝福が注がれていきますように。

エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン