聖書の言葉を聴きながら

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詩編 135:8〜14

2020年7月22日(水) 祈り会
聖書:詩編 135:8〜14(新共同訳)


 135は礼拝するために集った民に讃美を促します。3節「主を賛美せよ、恵み深い主を。/喜ばしい御名をほめ歌え。」主は恵み深い方であり、わたしたちにとって喜ばしい方。神の民は、主を讃美し、主に在って喜び歌います。
 きょうは8〜14節を読んでいきましょう。

 詩編イスラエルにとって忘れてはならない出エジプトを語ります。出エジプトは、イスラエルにとって神が救いの神であり、イスラエルを導く神であることを知った原体験です。旧約の出エジプト記にその出来事が記されています。

 8, 9節「主はエジプトの初子をことごとく/人の子も家畜の子も撃ち/エジプト中に、しるしと奇跡を送られた/ファラオとその家臣すべてに対して。」
 神は、奴隷の重荷に苦しんでいたイスラエルを救い出すために、エジプトに十の災いをくだされました。その最後の災いが、エジプトの初子を打つことでした。後にイスラエルは過越祭としてこの出来事を記念し続けます。神の裁きが神の民を過ぎ越していくのです。これはキリストの十字架をも指し示すまさにしるしでした。
 しるしは洗礼や聖晩餐のように特定の出来事を想起させるものです。特に初子が打たれた十番目の災いを指します。奇蹟は十の災い全体を指しています。神はファラオに対して神の民はご自分のものであることを明らかにされ、この世のどんな力も侵すことができないことを証しされました。

 そして出エジプトの後、40年にわたってイスラエルは荒れ野を旅しました。種蒔くこともせず、狩りもせず、神が与えてくださるマナによって歩みました。自分の力ではなく、神に支えられ導かれて生きることを経験しました。イスラエルは仮庵祭として荒れ野の旅を記念しました。

 神はイスラエルを約束の地カナンへと導かれます。その導きを妨げようとしたアモリ人の王シホン、バシャンの王オグ、そしてカナンの王国をイスラエルの手に渡されました。このことは民数記 21:21~35に記されています。
 シホンとオグは約束の地へと進むイスラエルの前に立ちはだかり、領内を通過することを許さず、イスラエルを攻めてきました。神はイスラエルに勝利を与え、シホン・オグの領地を占領しました。

 ただ約束の地カナンへの入植の出来事は、わたしにとって未だ解決していない課題の一つです。今日的視点からすると、カナンへの入植は侵略です。元々住んでいたと言っても、400年もの間エジプトに移住していたのですから、その間に住む人も出てきます。出エジプトは紀元前1,200年頃と考えられていますから、今から3,000年以上昔の話です。けれど力ある者が奪い取っていった時代だったでは納得のいかないものを感じます。問題は、神が導かれたということなのです。そして帝国主義植民地主義の時代において、占領を正当化する根拠とされたということです。1948年のイスラエル建国以来、イスラエルは「神が我々に与えられた地である」と主張し、パレスチナ問題は未だ解決していません。
 この出来事に関して、わたしはまだ納得のいく注解に出会ったことがありません。今の時代、そしてこれからの時代、ずっと問いかけられる問題だろうと思います。今日も、神の民に立ちはだかる異教徒を滅ぼすことは神の導きであるなどと言うならば、このテロの時代に神の愛を証しすることはできなくなってしまうでしょう。神の言葉としてこれらの出来事を聞いていくときには、新たに神の御心を聞き取っていかねばなりません。

 今日でも、神と共に生きることには信仰の戦いが伴います。イエスは言われます。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」(マタイ 10:37, 38)主を第一とすることを教えられました。しかしまた「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ 5:44、ルカ 6:27)とも教えられました。イエスご自身、自分の命を狙う者たちに対してその救いを願い、福音を語りかけられるお方です。わたしたちは、世の初めから世の終わりまで、わたしたちの救いのために御業をなさる神の救いの歴史、出来事を「聖書から」繰り返し聞きながら、今も生きて働かれる神との生きた交わりの中で絶えず新しく聞き続けていかねばなりません。

 今日ナショナリズムが信仰の大きな課題です。日本語では、民族主義国家主義などと言われるものです。キリスト者であってもナショナリズムに飲み込まれてしまう人は多くいます。神と並んで国がある、あるいは神よりも上に国があるという信仰を見かけます。
 このナショナリズムで必ず問題になるのが領土です。よく「古来わが国の領土である」ということが言われます。しかしすべては神が造られ、神のものです。きょうの箇所では12節「彼らの領地を嗣業として/嗣業として御自分の民イスラエルに与えられた」と言われています。嗣業という言葉、わたしは聖書でしか見たことがありませんが、他の訳では相続地、ゆずり、分け前などと訳しています。土地は神のものであり、神が与えてくださるものです。

 今日的な課題を申し上げましたが、2,000年以上前に生きた旧約の民には、そういう意識はありません。彼らの思いは「自分たちの歩みを導く主がおられる」ということです。自分たちの思い、願い、能力を超えて、自分たちを導いてくださる主がおられる、ということです。目に見える世界を創造し、統べ治めておられる神(6, 7節)がおられ、目に見えない時を治め、歴史を導かれる神(8~12節)がおられるのです。
 わたしたちにとっても世界を造り統べ治められる神、わたしたちの歩み、そして歴史を導かれる神を知ることは大切です。わたしたち一人ひとりも神に導かれて、信仰を持って歩んでいます。自分自身、そして自分の生涯を神の御前で捉え直すとき、わたしたちも旧約の民と共に神を讃美することができるでしょう。

 「主よ、御名はとこしえに。主よ、御名の記念は代々に。/主は御自分の民の裁きを行い/僕らを力づけられる。」(13, 14節)
 「御自分の民の裁き」とあります。裁きの元々の意味は正しく判断するです。神が正しく判断し、歩みを正してくださるから、民は安心して歩み行くのです。神はその民を神と共に生きる場、神を喜んで生きる場へと導いてくださいます。神は正しい判断、裁きによって、ご自身の民を力づけてくださるのです。

 主の御名は世の終わりまで宣べ伝えられ、主の御業、すなわち御名の記念も世の終わりまでなされます。わたしたちも神の民とされ、その歴史に連なり、主の御業を記念し、御名を宣べ伝えています。神の真実な救いの御業によって、わたしたちは守られ支えられて、主の御名を誉め讃えつつ、神の国へと歩み行くのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたはわたしたちの生涯を守り導かれます。あなたは約束を実現し、わたしたちを神の国へと導かれます。主イエスが言われたように、世の終わりまで共にいてくださいます(マタイ 28:20)。わたしたちがあなたの守りと導きの中に置かれていることをいつも覚えることができますように。代々の聖徒たちと共にあなたを喜ぶことができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン