聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ヨハネによる福音書 1:9〜13

2018年12月19日(水)祈り会
聖書箇所:ヨハネによる福音書 1章 9~13節(新共同訳)

 

 人はその一生をどこから来てどこへ行くのか知りません。まるで闇の中を歩いているようです。
 しかし神は、そんなわたしたちに人生を照らすまことの光を与えてくださいました。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」。
 すべての人を照らすのです。だからこの光の下には、希望があります。自分も、愛する者も、祈りに覚える一人ひとりをこの光が照らすことを信じることができます。
 このまことの光こそ、神のひとり子イエス キリストです。

 けれど「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」。罪の闇の中にいる者は、自分に何が必要なのかも分かりません。救いの恵みを拒絶してしまいます。
 けれど、神はあきらめません。神は「見放すことも、見捨てることもない」(ヨシュア 1:5)お方です。神は「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」(2ペトロ 3:9)。
 「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おう」(1コリント 1:21)とされました。そして今日に至るまで、神はキリストの福音を宣べ伝えていてくださいます。

 「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与え」ました。この「資格」と訳された言葉、新改訳は「特権」と訳しています。本来、罪ゆえに裁かれるべき罪人に、神の言、命なる光であるイエス キリストを信じるとき、神の子となる特別な権利が与えられるのです。

 神の子は、キリストと同じく神を「父」と呼べるようになります。神と、親子の関係に入れられます。親子は命の関係です。自分の存在の源にある関係です。神は、わたしたちを神の子とすることによって、揺るがない命の関係の中に入れてくださるのです。
 アメリカ合衆国長老教会が子どものために作成した「はじめてのカテキズム」( First Catechism )は次のように語ります。
 「あなたは誰ですか。 わたしは神さまの子どもです。 神さまの子どもであるとはどういうことですか。 わたしが、わたしを愛してくださる神さまのものだということです。」(問い1〜2 邦訳:『みんなのカテキズム』一麦出版社)
 神はこの恵みに与らせるために、ひとり子イエス キリストを通してわたしたちを神の子としてくださるのです。
 聖書はこう語ります。「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」(ガラテヤ 4:4~6)。
 イエス キリストが救い主であると信じた者は、神の子とされているのです。

 このことにはここまで引用してきた聖句からも分かるように、父なる神の御心、キリストの御業、聖霊の働きが関わっています。三位一体の神がわたしたちの救いのために関わってくださるのです。
 それを聖書はこう語ります。「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」。

 この罪人が神の子となるという恵みの出来事は、血によるのでもなく、肉の欲によるのでもなく、人の欲によるのでもありません。
 血というのは、血筋、血統のことです。イスラエル民族だから、神の子になれるのではありません。立派な家柄だから救いに近いのではありません。
 肉の欲というのは、滅びゆくこの世に属するものが永遠不滅を求めるということです。人間が永遠に憧れ、人間の限界を超えて聖なる存在を求めるから、神の子になれるのではありません。断食や様々な修行によって神の子に至るのではありません。
 人の欲というのは、「男の欲」(岩波版)「男の意思」(フランシスコ会訳)です。これは生物の生殖行為を指します。命の神秘という言い方をしますけれど、神の子は人間の営みによって生まれるのではありません。

 つまり、神の子になるには、人間の営み、人間の業によってなれるのではありません。ただ「神によって生まれた」のです。父・子・聖霊なる神がそのすべてでもって関わってくださり、神の奇跡によってわたしたちは神の子として新しく生まれるのです。これを新生と言います。
 イエスは言われます。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ 3:3)
 「人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと、イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた」(ルカ 18:26~27)。

 クリスマスは、キリストの誕生を祝うだけではありません。わたしたちが新しく生まれるために、神が救いの御業をなしてくださったこと、今もなしていてくださること、そして神の国に新しく生まれ、救いの完成に至ることを望み見、喜ぶときなのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたのすべてをもってわたしたちに関わり、罪から救い出してくださることを感謝します。あなたの御心、御業の中に、わたしたちの救いがあることを知ることができますように。キリストのご降誕を喜び祝うことを通して、わたしたちの信仰を深め育んでください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン