聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

「裏切る者を招く主」(ルカによる福音書22:21~23)

 「裏切る者を招く主」

 

 2021年9月26日(日) 主日礼拝  

聖書箇所:ルカによる福音書  22章21節〜23節

 

 今日も最後の晩餐の場面から、み言葉を聴き取りたいと思います。

 最後の晩餐の最中に、イエスはこの場に自分を裏切る者がいることを告げます。 

 どうしてイエスを裏切る者がこの場にいるのでしょうか。

 それはイエスが自分を裏切る者を招かれたからに他なりません。イエスの救いへの招きは裏切る者にさえも与えられます。

 裏切るような罪を持っているとしても招かれるのです。始めから招かれていない者など一人もいません。問題は、一人一人が招きに応えるかどうかなのです。

 

 ここで、イエスが裏切る者がいることを話されたのは、イエスが裏切ることを知っておられるのに、なお、その者をこの最後の晩餐に招かれたことに気づかせるためです。
 その者が裏切ることは、イエスだけが知っておられます。23節に「そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。」 とあるように、弟子たちは、誰が裏切るのかは全く分かっていません。

 イエスは、神が定められたとおり、ご自身の命を罪人のためにお献げになります。しかし、だからといって、イエスを裏切ることが正当化されるわけではありません。イエスを裏切るその人は、22節で述べられているように、「不幸」なのです。

 

 エゼキエル書33章の10節と11節にはこう書かれています。「 人の子よ、イスラエルの家に言いなさい。お前たちはこう言っている。『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』と。 彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」(33:10, 11)

 続く14節から16節では「また、悪人に向かって、わたしが、『お前は必ず死ぬ』と言ったとしても、もし彼がその過ちから立ち帰って正義と恵みの業を行うなら、 すなわちその悪人が質物を返し、奪ったものを償い、命の掟に従って歩き、不正を行わないなら、彼は必ず生きる。死ぬことはない。 彼の犯したすべての過ちは思い起こされず、正義と恵みの業を行った者は必ず生きる。」(33:14~16)とあります。

 さらに続く19節には「また、悪人でも、悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、それゆえに彼は生きる」(33:19) とあります。

 

 神は、「悪人が悪事のために死ぬのは喜ばない」と言われます。「悪人が、その道から立ち帰って生きることを喜ぶ」と言われます。神が「お前は必ず死ぬ」と言ったとしても、それは悪人に悔い改めを求めるためのものです。変えることのできない裁きの宣言では、ありません。今の状態が死に向かっていることを告げて、そこから悔い改めて、神に立ち帰るように、神が迫っておられるのです。

 ですから、悪人が悔い改めて、その罪を離れて正義と惠みの業を行うならば、「彼は必ず生きる。決して死ぬことはない」と、神は、自ら語られた「お前は必ず死ぬ」という言葉を翻して、生きる道を開かれるのです。

 神が求めておられること、神が願っておられることは、悔い改めて神に立ち帰ることであり、神と共に生きることなのです。

 

 ですから、この最後の晩餐の席で、イエスが「裏切る者がいる、わたしはあなたが裏切ることを知っている」と言われ、しかし、その者の名前を明らかにすることなく、それ以上は責めることをなさらなかったのは、「わたしを裏切るあなたを、わたしは招いている」ということに気づかせるためでありました。

 

 聖書には、神の裁きについて書かれており、神が裁かれたことが書かれています。しかし、神の裁きは、わたしたちを悔い改めへと導き、神と共に生きることへと招くためです。

 イエスは十字架で殺されましたが、霊においては生かされ、陰府に降り、獄に囚われている霊たちに宣べ伝えてくださいました。生きている者にも、死んだ者にも神の招きが伝えられます。神は、ご自分が造られたすべての者が悔い改めて、神へと立ち帰ること、そして神と共に生きることを願っておられます。

 

 裏切るということは、卑劣な行為だと考えられています。裏切ることは、信頼を破壊する行為です。神がわたしたちに信じることをお求めになるのも、共に生きる関係において、「信じる」ことは、なくてならないことだからです。神とわたしたちの間においても、わたしたち人間同士の間でも、信じる関係が成り立たなくては、共に生きていくことができません。

 この場面で、裏切る者とは、第一には、ユダを指しています。しかし、ユダだけが裏切ったわけではありません。他の弟子たちもみな、イエスを見捨てて逃げ去る者、イエスを知らないと言う者たちでした。だから、みな、裏切る者に対しての招きの言葉を聞く必要があったのです。自分の信仰の小ささや弱さが露わになったときに、なお、その自分をイエスが招いていてくださっていることに気づくため、イエスのこの言葉を聞いておかなければならなかったのです。

 

 ユダの一番の間違いは、自分が裏切ることを知っていて、なお招いてくださったイエスの言葉を忘れて、自ら命を絶ったことだろうと思います。イエスは、間違いなく、ユダの悔い改めを願っておられました。たとえ、ここでユダが悔い改めたとしても、イエスは何らかの仕方で、祭司長や長老たちの手に渡され、神が定められたとおり、十字架を負われたことでしょう。イエスはこの時、そして、この後でも、ユダが悔い改めることを願っておられました。しかし、ユダは、事が起こった後、後悔して自ら命を絶ちました。

 けれども、まだ終わりではないのだと思います。イエスは、陰府にまでも行って、宣べ伝えられるお方です。果たしてユダが悔い改めてイエスを信じるかどうかは、わたしたちの知るところではありません。救いは、神がお決めになることです。そして悔い改める時、信じる時も神の御心によるものです。

 

 わたしたちが知ることができるのは、神が聖書において啓示されていることです。そして、その神の言葉である聖書は、神の招きは裏切る者にさえ差し出されていることを教えています。

 

 わたしたちの弱く小さな信仰も、しばしば躓き、時に神を裏切るでしょう。自分で、自分にがっかりし、失望することもあるでしょう。しかし、その時にも、わたしたちは招かれているのです。わたしたちのすべてを知っておられる神は、わたしたちが悔い改めて、神へと立ち帰り、神と共に新しく生きることを願っておられます。そのことを信じることができるようにと、神はひとり子イエス キリストを救い主として、お遣わしくださいました。
 イエス キリストは、最後に、失望して、十字架にかかられたのでは、決してありません。裏切られることも、知らないと否定されることもご存じでした。だからこそ、その罪人たちを救うために、この世に来られ、十字架の道を歩んでくださいました。わたしたち一人ひとりのために、わたしたちの罪深さも、弱さも、愚かさも知っておられる主が十字架を負われ命を献げてくださいました。
 まさにこれが、わたしたちに対する神の御心であるということを、神は聖書を通して繰り返し何度も何度も語りかけてくださるのです。だから、わたしたちは、罪の世にあって、神の言葉である聖書から、何度も何度も聞き続けるのです。

 

 神の言葉である聖書が、愛と憐れみに満ちておられる真の神と出会わせてくださいます。そして神の許にこそ、わたしたちの救いがあり、命があり、未来があるのです。

 どうか今、神の招きの声を聞いて、救いに与って参りたいと思います。

 

祈ります。