聖書の言葉を聴きながら

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ルカによる福音書 22:1〜6

2017年7月2日(日)主日礼拝
聖書箇所:ルカによる福音書 22:1〜6(口語訳)

 

 場面は、いよいよイエスの十字架へと進んでまいります。
 1節に「過越といわれている除酵祭が近づいた」とあります。
 過越というのは、出エジプト記に出てくる神の過越を記念する祭りです。エジプトで奴隷であったイスラエルの民を救い出すために、神はエジプトの人も家畜もすべての初子を打たれましたが、イスラエルの家は過ぎ越されたことを記念する祭りです。過越は、神が救いの神であることを証しする出来事で、イスラエルにとっては最も重要な出来事です。
 除酵祭というのは、過越の祭に続く七日間をパン種、つまりパンを膨らませる酵母を入れないパンを食べる祭りです。酵母を入れないパンは、急ぎの時に食べるもので、エジプトを脱出する際に、神から酵母を入れないパンを食べるように命じられたことを記念して行われます。
 過越の祭と除酵祭とは、切り離すことのできない一続きの祭りでしたので、1節にあるように「過越といわれている除酵祭」と言われるようになったのだと思います。この祭りはニサンの月に行われました。ニサンの月というのは、現在の暦では3〜4月の時期になります。
 2節に「祭司長たちや律法学者たちは、どうかしてイエスを殺そうと計っていた。民衆を恐れていたからである」とあります。祭司長たちや律法学者たちは、民衆が自分たちを離れ、イエスを尊敬し、イエスに従うのを恐れていました。だから、どうかしてイエスを殺そうと考えていたのです。
 彼らは、民衆を恐れていました。神に仕える祭司長たち、神の言葉に仕える律法学者たち、その彼らが神を恐れるのではなく、民衆を恐れていたのです。自分たちの誇り、自尊心のために、神ではなく、民衆を恐れた。神以外のものに心が向いていってしまうとき、神を信じていながら、神の御業を拒絶する者となってしまいました。
 そんな時、十二弟子の一人で、イスカリオテと呼ばれていたユダに、サタンが入りました。彼は祭司長たちや宮守がしらたちのところへ行って、どうやってイエスを彼らに渡そうかと、その方法について話し合いました。祭司長たちや宮守がしらたちは喜んで、ユダに金を与える取決めをしました。マタイによる福音書によれば、それは銀貨30枚だった、と言われています(マタイ 26:15)。ユダはそれを承諾しました。そして、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、機会をねらっていたのです。

 なぜ、イスカリオテのユダはイエスを裏切ったのでしょうか。2,000年の間、多くの人々が、考えてきました。近年注目を集めた『ユダの福音書』も、そうした疑問から生まれた作品の一つと言えるでしょう。皆さんは、なぜユダはイエスを裏切ったのだと思いますか。
 ルカは、その理由をはっきりとこう書いています。「ユダに、サタンがはいった」
 サタンは、元々「敵対する者、妨げる者」という意味の言葉です。神に敵対し、イエスに従うことを妨げるサタンが、ユダに入ったのです。
 ある人は「悪魔がわたしたちが想像する姿をしていたならば、恐れるに足りない。悪魔が来たことがはっきりと分かる。しかし、悪魔は善意を装ってやってくる」と言っています。イエスが荒れ野で誘惑を受けられたときも、悪魔はいい方法があると勧めます。しかも聖書の言葉まで使って勧めます。悪魔の誘惑を受ける時、人はこうした方がもっといいんじゃないか、と良い選択をしているつもりで、誘惑されるのです。もしかしたら、裏切りにはユダなりの考えがあったのかもしれません。
 あるいは、日本的な言い方をすれば「魔が差した」ということでしょう。この場合、何故あんなことをしたのか自分でもよく分からない、ということかもしれません。
 なぜユダはイエスを裏切ったのか。理由は、聖書が言うとおり「ユダにサタンが入った」のです。神に敵対し、イエスに従うことを妨げるサタンが、ユダに入ったのです。
 そして、わたしたちにもサタンが入ることはしばしばあるのだろうと思います。自分自身のことを考えても、いつも神の御心と御業を愛し、イエスに従う模範的なキリスト者だとはとうてい思えません。わたしたちは罪を抱えており、絶えずサタンの誘惑にさらされています。

 ならば、どうしたらサタンを退け、神に立ち帰り、イエスに従っていけるのでしょうか。答えは簡単です。サタンの誘惑を退けたイエスをよく知ることです。そして自分をイエスよりも賢く思わないことです。「イエスはこう言われた、こうされた。でも、こうした方がもっとよかったんじゃないの。こうすれば大丈夫じゃないの」と自分の方が賢いと思わないことです。いろんな理由をつけて、イエスに従わなくても、うまくやれると考えないことです。イエスに従わなくてもいい理由を見つけて、大丈夫、かまわないと思わないことです。

 イエスはわたしたちが生きるための、一つの参考資料ではありません。わたしたちのただ一人の救い主であり、道であり、真理であり、命であるお方です。この方によってだけ、わたしたちは罪から救われ、死から救い出されるのです。聖書も、祈りも、礼拝も、このイエスと出会い、イエスを知り、イエスと共に生きるためにあるのです。イエスと共に生きるところにこそ、命の道があるのです。だから教会は、礼拝を、祈りを、讃美を大事にしてきたのです。イエスと出会い、神と共に生きるために与えられた恵みだからです。わたしたちが救いに与るためには、真実な救い主イエス キリストへと思いを向けていくのです。
 神はわたしたちに御子イエス キリストをお与えくださいました。神は、わたしたちが救われてご自身と共に生きることを願っておられます。

ハレルヤ