聖書の言葉を聴きながら

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ルカによる福音書 22:63〜71

2018年2月4日(日)主日礼拝
聖書箇所:ルカによる福音書 22:63~71(口語訳)

 

 イエスは逮捕され、大祭司の邸宅に連れて行かれました。そこで夜明けまで、イエスは監視されたままで置かれます。
 66節に「議会」とありますが、新共同訳聖書では「最高法院」と訳されています。最高法院は、祭司、律法学者、長老から選ばれた70人の議員、そして議長を加えた71人から成るユダヤの最高議会です。この最高議会は、夜中に行うことを禁じられていたため、イエスは夜明けまで監視されたまま置かれていました。

 その間、監視していた人たちは、イエスを嘲弄し、打ちたたき、目かくしをして、「言いあててみよ。打ったのは、だれか」ときいたりして、イエスを嘲り続けていました。
 18章31節以下で、イエスは十二弟子にこう言われました。「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子について預言者たちがしるしたことは、すべて成就するであろう」と言って、ご自身の苦難について「人の子は異邦人に引きわたされ、あざけられ、はずかしめを受け、つばきをかけられ、また、むち打たれてから、ついに殺され、そして三日目によみがえるであろう」と言われました。
 イエスは自分の道の先に、苦難が待っていることを知りながら、歩まれました。それは、罪人を救うという神の御心を成し遂げるためでした。

 夜明けと共に裁判が始まります。今は過越の祭の最中です。それでもイエスを死刑にしたいエルサレムの指導者たちは、事をすみやかに進めるために夜明けと共に裁判を始めます。
 長老、祭司長たち、律法学者たちは集まり、イエスを議会に引き出し尋ねます。「あなたがキリストなら、そう言ってもらいたい。」
 キリストというのは、ヘブライ語のメシアをギリシャ語に訳したもので、「油注がれた者」という意味です。神が預言者や王など、神の務めのために油を注いで聖別した者を指します。それが時代を経るにしたがって、神が最後にお遣わしになられる救い主を表す言葉となっていきました。
 「あなたがキリストなら、そう言ってもらいたい。」彼らは、神を冒涜した罪で、イエスを死刑にしようとしているのです。
 イエスは答えます。「わたしが言っても、あなたがたは信じないだろう。また、わたしがたずねても、答えないだろう。」

 わたしたちの信仰は、神と共に生きる信仰、神との交わりに生きる信仰です。語りかけられる神の言葉に応える信仰です。ですからわたしたちの礼拝は、聖書朗読と説教を聞いた後に、信仰告白をもって神に応答するのです。
 イエスは、自分を訴えるための証拠を得るために質問されても、丁寧に答え、神の御心を明らかにし、教えてこられました。
 エルサレムに来られてからも、毎日神殿で教えておられました。20章1節以下にこう書かれています。「イエスが宮で人々に教え、福音を宣べておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと共に近寄ってきて、イエスに言った、『何の権威によってこれらの事をするのですか。そうする権威をあなたに与えたのはだれですか、わたしたちに言ってください』。そこで、イエスは答えて言われた、『わたしも、ひと言たずねよう。それに答えてほしい。ヨハネバプテスマは、天からであったか、人からであったか』。彼らは互に論じて言った、『もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。しかし、もし人からだと言えば、民衆はみな、ヨハネを預言者だと信じているから、わたしたちを石で打つだろう』。それで彼らは『どこからか、知りません』と答えた。イエスはこれに対して言われた、『わたしも何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言うまい』。
 彼ら指導者たちには神の御心を聞き取り、民に教える務め、責任がありました。しかし、彼らは自分たちの都合のためにその務めを放棄し、分からないことにしてしまいました。神に託された務めを放棄し、神に応答しない者は、神が裁かれるでしょう。わたしたちの教会では、この務めは小会・中会・大会が担います。これらの会議を構成する牧師と長老の責任は重いのです。その務めを侮るとき、神の裁きを受けることを覚悟しなければなりません。

 イエスはこの自分の命の掛かった裁判で、「しかし」と言って語り出されます。「人の子は今からのち、全能の神の右に座するであろう」。そこで彼らは尋ねます。「では、あなたは神の子なのか」。イエスは言われます。「あなたがたの言うとおりである」。すると彼らは言います。「これ以上、なんの証拠がいるか。われわれは直接彼の口から聞いたのだから」。

 70節の「あなたがたの言うとおりである」というところは、新共同訳や今年出版予定の新しい翻訳「聖書協会共同訳」では「わたしがそうだとは、あなたがたが言っていることだ」と訳しています。一見すると、イエスは答えを避けられたように聞こえますが、これは自分たちが神の前で判断し、応答すべき事柄をごまかしている彼らに対して、「あなた方がわたしを見て聞いて判断すべきことだ」と問いかけておられるのです。
 そしてここでも彼らは自ら判断せず、「われわれは直接彼の口から聞いた」と言ってイエスにすべての責任を押しつけ、自分たちに不都合なイエスを亡き者にしようとするのです。

 イエスは、神の真実、罪人を救うという神の真実を証しするために、自らの命をかけて語られました。
 わたしたちは今、このイエス キリストの前に立たされています。主イエスはわたしたちの応答を待っておられます。

 罪ある者はそれをごまかそうとするか、沈黙をもってそれをながそうとします。けれど聖書が言うとおり「『しかり』を『しかり』とし、『否』を『否』と」しなければなりません。「そうしないと、あなたがたは、さばきを受けることになる」からです(ヤコブ 5:12)。
 神が御業をなされました。神は語りかけられました。それに対してわたしたちはどう答えるのでしょうか。
 わたしたちは、礼拝において説教の後に信仰告白をします。神の言葉に対して、わたしたちはあなたの言葉をこのように聞きました、わたしたちはこのように信じます、と言ってまずイエス キリストがわたしたちの主であるということから始まって、告白をしてまいります。神と共に生きようとするとき、神の言葉、神の御業、そして神ご自身に応える、それがわたしたちに求められている信仰です。
 わたしたちの日常生活でも、聞いているのにそれに答えが来ない、対話が成り立たないとき、共に生きるということが難しくなってきます。神は言葉を発し、その言葉は出来事になします。その神にかたどってわたしたちは造られました。わたしたちは、神に応答していくとき、わたしたちの言葉は空しいものではなく、出来事となる信じることのできるものとされていくのです。

 イエス キリストは、聖書を通して今わたしたちに語りかけ、問いかけておられます。わたしたちは今、イエス キリストに何と答えるのでしょうか。

ハレルヤ