聖書の言葉を聴きながら

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詩編 139:13〜24

2020年9月9日(水) 祈り会
聖書:詩編 139:13〜24(新共同訳)


 神がこの自分を知っていてくださる、極みまでも知っていてくださることに慰めと希望を覚えた詩人は、神の顧みの深さへと思いを向けていきます。

 13~16節「あなたは、わたしの内臓を造り/母の胎内にわたしを組み立ててくださった。/わたしはあなたに感謝をささげる。/わたしは恐ろしい力によって/驚くべきものに造り上げられている。/御業がどんなに驚くべきものか/わたしの魂はよく知っている。/秘められたところでわたしは造られ/深い地の底で織りなされた。/あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。/胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。/わたしの日々はあなたの書にすべて記されている/まだその一日も造られないうちから。」
 神はわたしの命の始め、母の胎にあるときから知っておられました。なぜなら神がわたしを造ってくださったからです。

 そして詩人は、自分が生きている不思議を感じます。わたしたちが身体の不思議を扱う科学的な番組を通して、生命の神秘に驚くようなことを、二千数百年前の人が信仰によりそれを感じとっています。見えない体内で起こっていることを「秘められたところ」「深い地の底」としか表現せざるを得ないのに、そこにも注がれる神のまなざし、そこでなされる神の御業を感じています。

 詩人は知ります。命の書とも呼ばれる神の許にある書には、命が始まる前から、神の御心、ご計画と共にわたしが記されていることを。詩人は確信します。わたしのすべてが神のまなざしの前にあるということを。神はわたしたちを知っておられます。
 そしてこの信仰を受け継いだパウロも告白します。「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神」(ガラテヤ 1:15)と。

 しかし、すべての人が神が知っていてくださることに慰めを感じる訳ではありません。アダムとエバは、神に見られることを恐れてその木の間に身を隠しました(創世記 3:8)。
 神が御業をなしてくださらないことの悲しみ、神がすべてを救いへと導いてくださることを知らない者には、神が知っていてくださること、神に知られることは、恐れにしかなりません。
 しかし詩人は、救いは神にあることを知っていました。

 17~18節「あなたの御計らいは/わたしにとっていかに貴いことか。/神よ、いかにそれは数多いことか。/数えようとしても、砂の粒より多く/その果てを極めたと思っても/わたしはなお、あなたの中にいる。」
 教会立の幼稚園などでは「よかった探し」というものをします。一日の終わりにきょうを振り返り、神さまが与えてくださったよかったことを思い起こし、感謝するというものです。詩人も神の配慮、導きを思い起こします。今、わたしたちが数え切れないように、詩人も数え切れないことを告白します。詩人は自分を取り囲む「砂の粒より」多いことを思います。「神のご配慮はここまで」とその果てを極めたと思っても、自分の思いを超えて、自分が神の御心、恵みのただ中にいることに気づかされます。

 19~22節「どうか神よ、逆らう者を打ち滅ぼしてください。/わたしを離れよ、流血を謀る者。/たくらみをもって御名を唱え/あなたの町々をむなしくしてしまう者。/主よ、あなたを憎む者をわたしも憎み/あなたに立ち向かう者を忌むべきものとし/激しい憎しみをもって彼らを憎み/彼らをわたしの敵とします。」
 罪の世にあっては、みんながみんな詩人と同じように、信仰に生きている訳ではありません。みんなが神を信じている神の民イスラエルの中にあってもです。神に逆らい、詩人のように神と共に歩もうとする者を苦しめる者がいます。詩人は裁きを求めます。罪により神の国、神のご支配が虚しくならぬようにと願います。そしてこれからも自分が、罪に惑わされることなく、神の側に立って毅然と歩んでいくことを願います。

 19節からの突然の嘆願に、この詩篇を解説しようとする者は戸惑います。ある人は「無実の罪で訴えられた人が、自分のすべてを調べ尽くしたヤハウェにその全知・遍在を告白し、その予定に従って自分と神との敵である不法者を『殺す』ことを願う」(旧約聖書翻訳委員会訳、旧約聖書 IV、松田伊作訳、岩波書店詩編であると理解します。別の人は「この詩は神の審きの決定を準備するものとして、礼拝の枠内にもともと場を持っていた」(ヴァイザー、ATD旧約聖書註解 詩篇 下、ATD・NTD聖書註解刊行会)というように、神に対する罪を裁く裁判の備えの祈りと考えます。
 しかしわたしにはしっくりきません。わたしがする普段の祈りでも、世に起こっている様々なことを覚えて、執り成していくとき、「主よ、あなたが裁いてくださいますように。罪を滅ぼし、義をお建てください。御国を来たらせてください」と毎回のように祈ります。
 ですから、神に思いを向け、神を讃える祈りに突然19~22節のような祈りが入ってきても、わたしには不思議ではありません。むしろわたしには、このように祈って、また23節からのような祈りへと戻っていくのは普通のことに思えます。

 詩人はこの願いの最後、21~22節「主よ、あなたを憎む者をわたしも憎み/あなたに立ち向かう者を忌むべきものとし/激しい憎しみをもって彼らを憎み/彼らをわたしの敵とします」と祈ります。
 詩人は純粋な思いで祈っているのだと思います。純粋な思いというのは、罪に惑わされることなく、神の側に立って歩んでいくという思いです。けれどわたしは、罪の世に対してもっとドロドロとした言葉にできない、したくない、憤り、いらだち、妬ましさ、さらには「信仰を持って生きるって損だよなぁ」といったものを感じています。そんなわたしが詩編の祈りの中に「あなたを憎む者をわたしも憎み」「激しい憎しみをもって彼らを憎み」という言葉を見つけると、ほっとします。今、この時、赦せなくても、愛せなくても、憎んでもいいんだ、とほっとします。
 民の祈りである詩編が、神の言葉として聖書に入れられているのは、神がこれらの祈りを受けとめてくださった証しであり、このように祈ってよいことを教えていてくださるからです。わたしたちは自分が赦しに溢れ、愛に満ちているかのように信仰を装わなくてよいのです。背伸びをして、自分の信仰を大きく見せようとしなくてよいのです。
 神はわたしたちを知っておられます。赦せないわたし、愛せないわたしを知っていてなお愛してくださいます。知っておられるからこそキリストを遣わしてくださいました。キリストの十字架を通して、わたしたちの怒りも、憎しみも、妬みも、不信仰も受けとめてくださり、なおわたしたちを救いへと整え、導いてくださいます。だから、神の前では、自分を隠す必要がないのです。偽る必要がないのです。このことにわたしは大きな慰めを感じます。
 だからわたしには、なおのことこの祈りは特別な場での祈りではなく、普段の祈りに思えるのです。

 23~24節「神よ、わたしを究め/わたしの心を知ってください。/わたしを試し、悩みを知ってください。/御覧ください/わたしの内に迷いの道があるかどうかを。/どうか、わたしを/とこしえの道に導いてください。」
 神に望みを置く詩人は願います。「わたしを究め/わたしの心を知ってください。」罪の世にあって神に従う、神の民の悩み苦しみを知ってほしいと願います。「わたしを試し、悩みを知ってください。」もしかしたら自分の内に迷いや弱さがあるかもしれない。自分で気づかなくても、神は知っていてくださる。そして神は導いてくださる。神の導きこそわたしを救いへと導く、と詩人は信じます。「どうか、わたしを/とこしえの道に導いてください。」

 「とこしえの道」という表現は、聖書の中で、ここでだけ使われる表現のようです。千変万化、万物は流転するこの世にあって、とこしえなるものは、神の許に、神と共にあります。詩人は、この祈りを神と共に歩ませてくださいという願いで閉じます。

 この詩篇、この祈りは、いつの時代にも神の民を支え導く祈りではないかと思います。皆さんがこの詩篇に親しみ、神が知っていてくださる慰めと希望に、神と共に生きる希望と喜びに導かれますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちの源が、あなたにあり、命の始まりからあなたによって造られ、導かれていることを知ることができますように。それでもわたしたちの思いは、罪の世で揺さぶられます。わたしたちの弱さをも知っていてください。どうかわたしたちをもあなたのとこしえの道に導いてください。そしていつもあなたを仰ぎ、あなたに祈る者としてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン