聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

詩編 143:7〜12

2020年10月21日(水) 祈り会
聖書:詩編 143:7〜12(新共同訳)


 神に助けを求める143篇の後半です。
 多くの願いが記されています。7節「答えてください」「隠さないでください」8節「聞かせてください」「教えてください」9節「助け出してください」10節「すべを教えてください」「導いてください」11節「命を得させ(てください)」「引き出してください」12節「絶やしてください」「滅ぼしてください」

 祈りは3つの要素からなります。一つは「神への感謝」もう一つは「神への讃美」そして三つ目は「願い」です。
 この中で一番多いのが「願い」です。感謝も讃美も大体一言で終わりますが、願いは自分への願いも、他者の執り成しも沢山出てきます。神に分かって頂きたい、聞いて頂きたいと思うせいか、ああも言い、こうも言い、言葉が重なっていきます。
 詩人も多くの願いを神に求めます。

 7節「主よ、早く答えてください」わたしたちにとって無視されることはとても辛いことの一つです。神を信じている者にとっては、神が祈りに応えてくださらないと信仰が絶えそうになります。「やっぱり神はいないのか」といった諦めに捕らわれてしまいそうになります。
 「わたしの霊は絶え入りそうです。」詩人は神とのつながりが切れてしまいそうな危機を感じています。
 「御顔をわたしに隠さないでください。」「顔を隠す」という表現は「忘れる」「棄てる」を意味しており、神が関係を断たれることを示す表現です。詩人は神との強いつながりを求めています。
 「わたしはさながら墓穴に下る者です。」詩人は自分の滅びが目の前にあるように感じています。

 8節「朝にはどうか、聞かせてください/あなたの慈しみについて。」夜が明けて、闇が消えていくように、見えなかったものが見えるようになるように、今は見えない神の慈しみが失われていないことを聞けるようにと祈ります。
 「あなたにわたしは依り頼みます。」危機の中で詩人は、信仰を手放さず、神の許に踏みとどまろうとします。
 「行くべき道を教えてください」。詩人は求めます、神と共に歩む道、神の国に至る道を。それが滅びを逃れる道であると詩人は信じています。
 「あなたに、わたしの魂は憧れているのです。」詩人は神に手を伸ばし、神を求めます。原文は「わたしはあなたへと魂を掲げます」となっています。魂を掲げるは「切望する、思いを寄せる」ことを表します。新共同訳はそれを「憧れている」と訳しました。ここを読んでわたしは「果たして自分は神に憧れているだろうか。イエス キリストに憧れているだろうか」という思いが浮かびました。

 9節「主よ、敵からわたしを助け出してください。御もとにわたしは隠れます。」詩人は、神の民がそう信じてきたように、神こそ我が逃れ場と信じて神に助けを求めます。

 10節「御旨を行うすべを教えてください。」8節では「行くべき道を教えてください」と祈りました。神の御心を行い、神と共に歩む。そこにこそ自分の救いがあることを詩人は知っており、それをこそ願います。
 「あなたはわたしの神。」詩人の存在を支える言葉です。この言葉と対になるのが2, 12節の「わたしはあなたの僕」です。「あなたはわたしの神です。そしてわたしはあなたの僕です。」ここに詩人のアイデンティティーがあります。これが詩人の信仰の核となるものです。
 「恵み深いあなたの霊によって/安らかな地に導いてください。」神の霊が豊かに注がれ、神とのつながりが確かにされることを詩人は願います。神とのつながりこそが神の恵み深さを表すものであり、それがあるとき、詩人は平安に歩み行くことができます。人の目には困難に見えるときも、安らかな地にあることができます。アブラハムが行き先を知らされないまま従うように召し出されて以来、神の民が寄留者のように神に従い歩んだときもそうでした。

 11節「主よ、御名のゆえに、わたしに命を得させ/恵みの御業によって/わたしの魂を災いから引き出してください。」「恵みの御業」とありますが、これはツェダカーという単語で、普通は「義、正義」と訳される言葉です。旧約の中で大切な言葉の一つです。新共同訳は「義」と訳したのでは分かりづらいと判断したのでしょう。聖書に出てくる「義」は関係の正しさを表す言葉です。夫婦、親子、家族、友人、そして神との関係の正しさを表す言葉です。詩人は、神との関係の正しさが整えられるとき、自分も災いから救い出され、命が守られると信じています。

 12節「あなたの慈しみのゆえに、敵を絶やしてください。わたしの魂を苦しめる者を/ことごとく滅ぼしてください。」不思議な表現が出てきます。「慈しみのゆえに、敵を絶やしてください。」「慈しみ」という言葉と「敵を絶やしてください」という言葉が釣り合わず違和感を感じます。この「慈しみ」という言葉、ヘブライ語で「ヘセド」という言葉ですが、契約関係の中で助けるまた愛することを表します。これも旧約の中で大切な言葉の一つです。「契約関係の中で助けるまた愛する」だからこの言葉に続くのが、「わたしはあなたの僕なのですから」という言葉なのです。神に向かって「あなたとわたしの間にはそういう関係がありますよね。あなたはわたしの神で、わたしはあなたの僕です」と訴えているのです。
 神は、詩人の、そしてわたしたちの怒りや憤りも受け止めてくださいます。「敵を絶やしてください。ことごとく滅ぼしてください。」この言葉、この祈りが聖書に収められているのは、神がこれらの思いを受け止めてくださるということです。神は罪を抱えたわたしたちが、罪の世で生きており、罪ゆえの理不尽な痛み・悲しみを負いながら生きていることをご存じです。神は「赦しなさい」と教えておられますが、詩人のこの祈りに「そんな風に祈ってはいけないよ」とは言われません。神はわたしたちの怒り・悲しみも含めたすべてを受け止めてくださいます。わたしたちは神の前で信仰深く装うのではなく、ありのままのすべてを受け止めて頂けるのです。

 この143篇の祈り・願いの根本にあるのは、10節「あなたはわたしの神」と2, 12節の「わたしはあなたの僕」という言葉、そこで表現されている「あなた=神」と「わたし」の関係なのです。そしてその関係を表す言葉としての1, 11節の「ツェダカー」「恵みの御業=義」と8, 12節の「ヘセド」「慈しみ」です。
 わたしたちにとっても、信仰が意味ある内実のあるものであるためには、神とわたしとの関係が重要です。神とわたしの間に「ツェダカー・義」があり、「ヘセド・慈しみ」があるのかがとても大事です。実にそれを与えるため神はイエス キリストをお与えくださいました。

 自分という存在の危機に、この詩篇は祈られました。わたしたちに与えられている信仰はきれい事や建て前ではなく、命を存在を救う本物の救いを受けるための恵みなのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 詩人と共にあなたに望みを置いて祈ります。どうかあなたとの関係が確かなものとされますように。あなたの義と慈しみで満たされますように。あなたの義と慈しみを与えるために来てくださったイエス キリストで満たされますように。どうかあなたご自身がわたしたちを支えるために自らを差し出してくださり、父・子・聖霊なるあなたとの交わりの中に入れられていることを深く知ることができますように。どうかあなたの栄光が豊かに現されますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン