詩編 142:1〜8
2020年10月7日(水) 祈り会
聖書:詩編 142:1〜8(新共同訳)
きょうは142篇です。この詩編もまた神に助けを求める祈りです。
表題に「ダビデが洞穴にいたとき」とあります。表題にダビデがどのような状況にいたかを示す言葉があるものはいくつもありますが、「洞穴」が出てくるのは142篇と57篇の二つです。そしてダビデが洞穴にいる場面も、アドラムの洞穴(サムエル上 22章)とエン・ゲディの洞穴(サムエル上 24章)の二つです。どちらの場面かを決める具体的な手がかりは詩篇の中にはありません。
表題にマスキールとありますが、これも今では何を意味するのか分かりません。単語は「理解する」という意味のヒスキールという単語の分詞なので、教訓詩と訳しているもの(岩波書店版)もありますが、表題にマスキールとあるものが必ずしも教訓詩ではないので、現状では意味は分かりません。
また表題には「祈り」とあります。同じく表題に祈りとあるものがいくつかありますが、詩篇はどれも祈りなので、なぜわざわざ祈りとあるのか分かりません。
詩人は神に向かって叫びます。2〜3節「声をあげ、主に向かって叫び/声をあげ、主に向かって憐れみを求めよう。/御前にわたしの悩みを注ぎ出し/御前に苦しみを訴えよう。」詩人は主の憐れみの御業がなされることを求めています。
4節「わたしの霊がなえ果てているとき/わたしがどのような道に行こうとするか/あなたはご存じです。/その道を行けば/そこには罠が仕掛けられています。」
霊の働きはつながることです。詩人は自分の霊がなえ果てていると言います。つまり、神とのつながりが弱まっているのを自覚しています。そして、そのような自分がどんな風に歩んでしまうかを神は知っておられることを詩人は知っています。「だから今の自分がこのまま歩めば、罠にかかり、神から離れてしまうことを、神よ、あなたはご存じです」と語りかけるのです。そして「あなたの助けが必要な状況です」と訴えるのです。
5節「目を注いで御覧ください。右に立ってくれる友もなく/逃れ場は失われ/命を助けようとしてくれる人もありません。」
右は支持や支援を表します。詩編 121:5には「主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方」という表現が出てきます。
詩人は訴えます。「今、自分を支援してくれる友もなく、逃れ場もありません。命を助けてくれる人もありません。神よ、ご覧ください。わたしにはあなたの他には誰もいません。」
詩人は神に訴えます。6節「主よ、あなたに向かって叫び、申します/「あなたはわたしの避けどころ/命あるものの地で/わたしの分となってくださる方」と。」
詩人は「わたしにはもう何もありません。誰もいません。しかし主よ、あなたがおられます。あなたこそわたしの避けどころ、わたしの受けるべき分です」と神に呼びかけます。
聖書には「嗣業」という言葉があります。(聖書協会共同訳からはなくなりました。)神から与えられ、家族が受け継いでいくものです。出エジプトの後、約束の地に導き入れられて、レビの一族以外は一族の嗣業の土地が与えられました。しかしレビ族は、神への献げ物から受けるものが与えられました。レビ族は、イスラエルが信仰によって生きるしるしとされたのです(民数記 18:20)。「わたしの受けるべき分」とはこの嗣業を表しており、詩人が神によって生きること、神こそが自分に与えられている、自分は神に依り頼むことを表しています。
詩人は諦めることなく重ねて訴えます。7〜8節「わたしの叫びに耳を傾けてください。/わたしは甚だしく卑しめられています。/迫害する者から助け出してください。/彼らはわたしよりも強いのです。/わたしの魂を枷から引き出してください。」
「枷」という言葉は、訳によっては「牢獄」としているものもあります。実際に詩人が捕らえられているのか、詩人の窮地を表す比喩なのかは分かりません。
余談になりますが、「枷」を「獄」と訳して「ひとや」と振り仮名をしている訳があります(フランシスコ会訳、岩波書店版)。讃美歌 112番の 2節に「悪魔のひとやを うちくだきて」という歌詞があります。最初に赴任した磐田西教会で、クリスマスイブ讃美礼拝のしおりを作ったとき、わたしはこの「ひとや」を悪魔が打ち込む一本の矢だと思って「一矢」と変換してしおりに歌詞を書きました。それを高校で国語の先生をしておられた80歳近くの方から勘違いをしていると教えて頂きました。
詩人は最後に自分の願いの根底にあるものを神に訴えます。8節「あなたの御名に感謝することができますように。/主に従う人々がわたしを冠としますように。/あなたがわたしに報いてくださいますように。」
8節後半は、新共同訳と最近の翻訳(聖書協会共同訳 2018、新改訳2017、フランシスコ会訳 2011、岩波書店版 2004)とで訳が違いますが、きょうはご一緒に読みました新共同訳に沿って話を致します。
詩人は神に感謝したいのです。自分が信じてきた神に感謝したいのです。そして共に主に従う聖徒たちから認められたいのです。だから、神にこそ報いてもらいたいのです。
人によっては最後の祈りに引っかかる人がいるかもしれません。「なんだ、人から認められたいのか。人の評価が大事なのか。人から評価されるために、神に報いてもらいたいのか。」パウロも「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい」(ガラテヤ 1:10 口語訳)と言っているではないか。
人には程度の差はあれ「信じてやってきたことが無駄であって欲しくない」「周りの人に認められたい、評価してもらいたい」という思いがあるだろうと思います。
神がこの祈りを神の言葉とされ、聖書に収められたのは、このような思いを神に祈ってもよいということなのだと思います。
罪は自分を隠そうとします。エデンの園でアダムとエバが罪を犯した後も、木の間に隠れて神から身を隠そうとしました(創世記 3:8)。しかし神は「隠す必要はない」と言ってくださっているのだと思います。
誰にも言えない思い、しかし神の民は、神には聞いて頂ける、受け止めて頂けるのです。神の前では罪を隠す必要がない、信仰を装う必要はないのです。神は知っていてくださいます。だから神の前では、ありのままの自分でいてよいのです。そして神にこそ求めるのです。神はわたしたちの不十分な祈りを受け止め、わたしたちを救いへと導くために必要な導きでもって応答してくださいます。
だからわたしたちは祈ります。危機の時も、そうでないときも、神に祈ります。旧約の詩人たち、代々の聖徒たちと共に神にこそ祈り求めるのです。
ハレルヤ
父なる神さま
代々の聖徒たちと共に祈ります。わたしたちの祈りに耳を傾けてください。憐れみをお注ぎください。わたしたちの避けどころとなり、わたしたちを助けてください。どれほど文明が進み、社会が変わっても、わたしたちの罪は変わりません。千年経とうと、二千年経とうと変わりません。わたしたちにはあなたの救いが必要です。どうかわたしたちを罪から救い出し、あなたの御国に生きるあなたの子としてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン