聖書の言葉を聴きながら

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詩編 141:1〜10

2020年9月30日(水) 祈り会
聖書:詩編 141:1〜10(新共同訳)


 きょうは141篇です。140篇に続いて、神に助けを求める祈りです。

 3~4節「主よ、わたしの口に見張りを置き/唇の戸を守ってください。/わたしの心が悪に傾くのを許さないでください。悪を行う者らと共にあなたに逆らって/悪事を重ねることのありませんように。彼らの与える好餌にいざなわれませんように。」
 詩人は揺らいでいます。悪へと誘う誘惑に揺らいでいます。詩人はこの誘惑が悪しきものであることを知っています。この誘惑に乗ってはいけないことを知っています。
 3節に「わたしの口に見張りを置き/唇の戸を守ってください」とあるので、偽りを語りそうなのでしょうか。可能性が高いのは、裁判で偽証を求められることです。そうしないと不利益を被るのでしょうか。彼らが約束するもの(好餌)が彼にとって必要なものなのでしょうか。

 詩人は自分が誘惑に飲まれるぎりぎりのところにいることに気づいています。だから1節「主よ、わたしはあなたを呼びます/。速やかにわたしに向かい/あなたを呼ぶ声に耳を傾けてください。」
 猶予がないことが「速やかに」という言葉から伝わってきます。

 詩人は祈ります。2節「わたしの祈りを御前に立ち昇る香りとし/高く上げた手を/夕べの供え物としてお受けください。」
 この祈りが夕べの祈りであることが「夕べの供え物としてお受けください」という言葉から分かります。裁判は明日なのでしょうか。詩人は当然神殿にも行って祈ったことでしょう。けれど、神殿に行けない今も祈らずにはいられません。
 詩人にとって、祈りは神殿で献げる献げ物と同じです。当時は両手を天に差し伸べて祈りました。
 出エジプト 30:7~8にはこうあります。「毎朝ともし火を整えるとき、また夕暮れに、ともし火をともすときに、香をたき、代々にわたって主の御前に香りの献げ物を絶やさぬようにする。」献げ物は、立ち上る香りとなって、神の許に届くと考えられていました。そして詩人は詩編 51:19のような思いを抱いていたかもしれません。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません」。詩人は、自らの真実な願いを神に献げます。

 5節「主に従う人がわたしを打ち/慈しみをもって戒めてくれますように。」詩人は、神に従う正しい人が自分を止め、戒めてくれることを願います。この罪の誘惑に引きずられている人を留めようとするのが、教会の規則にある「戒規(discipine)」と呼ばれるものです。

 5節後半から7節は、原文が破損していると岩波書店版の注には書かれています。底本のマソラ本文に付けられている読み替えの指示、ギリシア語訳、アラム語訳、シリア語訳、そして死海写本などを参照しながら、文章を校正していったのでしょう。わたしが見た翻訳ごとに(新共同訳、聖書協会共同訳、新改訳2017、フランシスコ会訳、岩波書店版、田川建三版)訳が違い、意味が違っています。

 5節の3行目は、誰が油を注ぐと理解するかで訳が変わります。悪人が注ぐと考えると、詩人を仲間として歓迎することを示していて、新共同訳のように油注ぎを拒絶する訳になるでしょう。これが5節の1~2行目に付けて考えると、主に従う正しい人が、油注ぎをもって清めてくれると理解するならば、拒むことがありませんようにという訳になるでしょう。

 6節は、新共同訳だと「悪人たちが詩人の言葉を聞いて考えを改めたから、彼らの支配者たちが裁かれますように」という理解のようです。他には支配者を裁き手と訳して「裁き手によって悪人たちが裁かれたら、わたしの言葉を理解できるだろう」と理解するものもあります。

 7節の「わたしたちの骨」は、「彼らの骨」と訳するものもあり、訳によって理解がバラバラで、どう理解したらいいか困惑します。

 この100年を考えると、死海写本の発見もあり、聖書学は大きく変わりました。翻訳の底本も、旧訳はビブリア・ヘブライカ・シュトットガルテンシアですが、一番新しい聖書協会共同訳ではビブリア・ヘブライカ・クインタが一部用いられています。新約の場合、新共同訳はギリシア新約聖書(修正第三版)でしたが、聖書協会共同訳では(修正第五版)になっています。
 ですから、もう100年すると今は不明の部分が多少は明らかになるかもしれません。

 ということで、今は手元にある新共同訳の理解に従って聞いていきます。
 5節後半「わたしは油で頭を整えることもしません/彼らの悪のゆえに祈りをささげている間は。」
 悪人たちが悪から離れない限り、詩人は彼らの歓迎を受けません。

 6節「彼らの支配者がことごとく/岩の傍らに投げ落とされますように/彼らはわたしの言葉を聞いて喜んだのです。」
 悪人たちには、彼らに指示を出す黒幕がいるようです。悪人たちも悪をなすように命令されています。だから詩人は祈ります。彼らの支配者が岩なる神の傍らに投げ落とされ、神の御前に立たされますように。なぜなら、悪人たちは詩人の言葉を喜んで聞くこと、心を開くこともあるからです。

 7節は「」が付けられているように、悪人たちの言葉と理解したようです。ですから7節の「わたしたち」は悪人たちのことです。詩人の言葉を聞いて、悪人たちは気づきます。自分たちが今、陰府の入口に立っていることを。

 8節「主よ、わたしの神よ、わたしの目をあなたに向け/あなたを避けどころとします。わたしの魂をうつろにしないでください。」
 詩人は、神の御許こそ罪を避けることのできる逃れ場であることを知っています。だから詩人はその目を、思いを神へと向けます。罪によって自分の命が神の前から失われてしまわないように、自分の魂がうつろになり、空っぽになってしまわないように。

 9節「どうか、わたしをお守りください。わたしに対して仕掛けられた罠に/悪を行う者が掘った落とし穴に陥りませんように。」
 詩人は、主の守りと導きがなければ、自分が罪の罠に陥ってしまう弱さを抱えていることを自覚しています。

 10節「主に逆らう者が皆、主の網にかかり/わたしは免れることができますように。」
 詩人は、罪を抱えたままでは共に生きることはできないことを知ります。共に生きるには、神の義が必要なのです。神が罪を裁き、ご自身の義を立ててくださることが必要なのです。主に逆らう者は皆、主の網にかかり、主がおられること、主が生きておられることを知るようにと、詩人は祈ります。そして詩人は、罪に陥ることなく、歩むべき道を歩み、神に裁かれることなく、神を喜んで歩めるようにと祈るのです。

 詩人が祈った時代から二千数百年が過ぎました。詩人の時代には、スマホもなければ、飛行機も自動車もありません。しかしわたしたちの罪は変わらずに存在します。今も噓が強要され、文書は改ざんされ、廃棄されます。良心の痛みに耐えかねて自ら命を絶つ人もいます。
 この祈りもまた、救いが完成し、神の国が到来するまでは、祈り継がれていかねばなりません。きょう説明したように、原文が一部損なわれていて「正確に分からないからなぁ」と多少意欲が削がれるかもしれません。それでも罪の世にあって苦しめられる人がいる限り、この祈りも神の言葉として祈り継がれ、罪の危機の中でよろめく人が神の御前へと導かれるように、教会は次の世代、次の世に語り伝えていくのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 罪の世にあって、わたしたちは様々な誘惑にさらされています。罪と分かりつつも、罪に飲み込まれていってしまうこともあります。罪を抱えているわたしたちはあなたの助けが必要です。あなたの守りと導きが必要です。どうかあなたがわたしたちの手を取って命の道を歩ませてください。どうか神の国へとわたしたちの歩みを至らせてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン