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ローマの信徒への手紙 7:21〜25

2020年4月1日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 7:21〜25(新共同訳)


 この手紙を書きましたパウロは、元々ユダヤ教ファリサイ派に属していました。ファリサイ派というのは、律法を日常生活において厳格に守ろうとした人々です。パウロファリサイ派の一員として生きていたときには、律法に関して非の打ち所のない者だと確信していました(フィリピ 3:6)。

 しかし、イエス キリストと出会い、イエスが救い主(キリスト)であることを知って、今まで確信を持っていた自分の信仰が、救い主を理解できない、救い主を拒絶してしまう誤った信仰であったことに気づきます。
 そして、イエス キリストを信じたとき、それまで執着していた自分から解放されていったのです。
 ファリサイ派は、律法をちゃんと守っている自分が大事です。律法を守っている自分が誇りです。律法主義は、自分が律法を守っていることを神に評価されること、律法を守っている自分が誇りであること、律法を軽んじ守らない者を裁く(見下す)ことがセットになっています。
 それが、イエス キリストを信じたとき、律法主義から解放され、自分から自由になるのです。そして自分自身を新たに見ることができるようになったのです。

 パウロは、自分の(誇りを得る)ために律法を守るするのではなく、神の救いの恵みから自分自身を知っていったのです。
 アメリカ合衆国長老教会の子ども向けカテキズムも「あなたは誰ですか」という問いを立て、それにわたしは「わたしを愛してくださる神さまのものだ」と答えています(『みんなのカテキズム』一麦出版社)。神の恵みの中でこそ、わたしたちは自分自身が何者であるかを知るのです。

 パウロはキリストと出会い、キリストを信じたので、もはや自分で自分の正しさを弁明する必要がいっさいなくなりました。パウロはキリストの救いの中から自分を理解していきます。
 「それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます」(21節)。パウロは善をなしたい、神の御心に従いたいと願っています。
 「『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります」(22~23節)。パウロは、神に従いたい内なる自分と、罪を抱え込み神に従えない自分がいるのに気づきます。その両者が分離できずに共存しているということに気づきます。自分は罪人であることをやめられないのです。

 ちなみに律法と法則という言葉が出てきますが、これはどちらも同じ単語「ノモス」という言葉です。日本語だと律法は神の戒めを指す特別な言葉なので、文脈によって律法と法則と訳し分けています。

 近代哲学の父と呼ばれたデカルトは「我思う故に我あり」と言いましたが、わたしたちはこの「我思う」をやめられません。神の御心とは違う自分の善悪で考えることをやめられないのです。自分は自分であることをやめられません。
 神は、わたしたちをロボットのようには造られませんでした。神の命令に機械的に従うものではなく、神の思いを受け止め、理解して、神に従う決断をするもの、つまり神を愛するものとしてわたしたちを造られました。けれど、そこに罪が入り込んできたため、神を愛し、神と共に生きることができなくなってしまいました。

 古来、自分自身への執着を断ち切り、神や仏と一体になる、宇宙を動かす真理と一体になるための修行が、宗教(清めの儀式、修験道、座禅など)やヨガ、気功、あるいは武術(武を通して天人合一を目指す)などで行われてきました。自分自身への執着を断ち切ることが大事だということに気づいていました。わたしはこの分野に興味があるので、それぞれの分野の達人たちのエピソードを読んできました。それぞれに驚くべきエピソードがありますが、しかし死を打ち破って復活した人はありません。古来人類が様々に積み上げてきた修行では、罪がもたらす死の問題を解決することはできません。
 神は、修行など人間の努力の先で救いに至るのではなく、神の救いの御業、神の恵みの中で、キリストと一つにされることによって、罪ある自分自身から解放され、神の子として新しく生きる道を与えてくださいました。それが、イエス キリストの福音として、聖書が語り、教会が宣べ伝えてきた事柄です。

 わたしたちは、神が与えてくださる救いが確かだからこそ、罪人である自分自身を絶望することなく知ることができるのです。パウロは言います。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(24節)。
 これは、救いを知っているからこそ言える言葉です。救いを知っているからこそ、罪がもたらす悲惨をごまかさずに受け止めることができるのです。

 だからパウロはすぐに続けて言います。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」(25節)。パウロは知ったのです。イエス キリストこそが罪からの救いを与えてくださるのです。
 これには、パウロファリサイ派であったことも関係しているのではないかと思います。パウロは、祈りや断食、施しを含む律法に従うという言わば修行のような生活をしてきました。しかしそれではキリストを理解することができませんでした。パウロは自らの努力、熱心の延長で救いに到達するのではないということに気づかされたのです。
 さらにパウロは、キリストの十字架と復活を知っています。そして、復活のキリストとの出会いが決定的でした。それは人の思いを超え、罪さえも超えて、神が人間の歩みの中に、わたしの人生に入ってきてくださり、わたしと出会い、救いの御業をなしてくださる証しです。キリストは、誰かが来てほしいと願ったから世に来られたのではありません。弟子たちも復活してほしいとは願いませんでした。パウロは、キリストの迫害者で、キリストと出会いたいなどとはこれっぽっちも思っていませんでした。けれどキリストは来てくださり、出会ってくださったのです。神が、わたしの人生、わたしの命に決定的な関わりを持ってくださるのです。

 今わたしはいろいろと説明しました。しかしパウロは、イエス キリストに圧倒され、イエス キリストの恵みに包み込まれています。だから、言葉になりません。これまでくどいくらいに語ってきたのに、あまりの素っ気なさです。しかし、この言葉は、この手紙のすべての言葉を込めたパウロ信仰告白です。
 「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」(25節)。

 だからパウロは、救いの平安の中で自らについて語ります。「このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」(25節)。
 人は自分に都合の悪いことから目を背けようとします。古くから「縁起でもない」と言って都合の悪いことは言葉にしないようにしてきました。最近では、都合の悪いこと、マイナスなことは考えずに、もっとポジティブに行こうなどと言われます。また自虐史観だとか言って、都合の悪い歴史から目を背けます。日本の技術はすごい、日本人は素晴らしい、クールジャパンと言って、神ではなく日本人であることを誇りとして生きていこうとします。
 しかしそのようなことでは罪から解放されません。病気になって症状が出ているのに、都合の悪いことから目を背け、考えないようにしていたら、病気は進行し、大変なことになってしまいます。

 罪から救われるためには、罪を知らなくてはなりません。そのためには、矛盾するようですが、救いに満たされることが必要なのです。キリストの救いに満たされていくとき、わたしたちはそこで初めて自分の罪を知ることができるのです。なぜなら、罪に対する確かな赦しを神ご自身が備えていてくださることをキリストにあって知るからです。救いの恵みに守られ支えられて初めて、わたしたちは自分自身というものを知ることができるのです。

 わたしたちは、キリストを知るとき、救い主と出会うとき、神がこのわたしを知っていてくださり、愛していてくださること、このわたしを救ってくださることを信じることができるのです。復活のキリストは、わたしたちに喜びと平安を与えてくださるのです。

ハレルヤ


父なる神さま
 あなたは本当にわたしたちを知っていてくださいます。そして本当に依り頼むことのできる救い主を遣わしてくださいました。どうかわたしたちもパウロと同じ平安と喜びに与らせてください。あなたがよかったと喜んでくださった自分自身を知ることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン