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ローマの信徒への手紙 7:7〜13

2020年3月18日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 7:7〜13(新共同訳)


 神は、律法による自分の義ではなく、信仰による神の義によって、わたしたちを救おうしておられるとパウロは語ってきました(3:21~5:21)。そして6章では、救いに入れられた者が救いにふさわしく、罪から離れて神と共に生きることが正しいことを明らかにしました。そして前回のところ(7:1~6)では、キリストと結び合わされ、キリストのものとされたのだから、もはや律法によって自分の義を立てることから解放され、キリストと結び合わせてくださった聖霊により、自分を神に献げ、神に向かって生きる者とされていることを示しました。

 そこできょうの箇所です。パウロはまた問いかけ、否定して話を進めます。「では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。」(7節)
 神は律法による自分の義を求めてはおられない。神の救いは、わたしたちをキリストと結び合わせ、キリストのものとし、律法から解放した。そう語るほどに「では律法は罪なのか」という問いが投げかけられます。パウロは「決してそうではない」と答えます。

 「しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。」(7節)
 律法がなければ、神の御心が分かりません。神に従うことも、神に背き神から離れることも区別がつきません。すべては自分の思いの赴くままです。救いを求めることもなく、神へと立ち帰る思いも起こりません。

 「ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。」(8節)
 罪は神の御心が明らかになるところで、人を神から引き離そうとします。逆に律法によって御心が明らかにならなければ、神から離れようとすることも生じず、罪は働く機会を得ることができません。御心が示されると同時に、罪が働き出すのです。ここに罪人の悲しみがあります。

 では、律法がなければよかったのでしょうか。しかし律法がなければ、神の御心を知ることもありませんし、神に従うことを祈り求めることもありません。そして罪に気づくこともありません。罪を知らなければ、救いを求めることもなく、神へと立ち帰る思いも起こりません。
 パウロは「わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました」(9, 10節)と言っています。
 ところで、パウロは律法なしで生きたことなどありません。フィリピの信徒への手紙の中で「律法の義については非のうちどころのない者でした。」(フィリピ 3:6)とパウロは言っています。そのパウロがなぜ「かつては律法とかかわりなく生きていました」(9節)と言ったのでしょうか。
 それは、復活のキリストに捉えられて律法主義の誤りに気づいたからです。

 律法主義というのは、律法を形式上守ることで自分は神の御心に適って生きていると自己満足するあり方です。
 例えば、十戒の「安息日には何の業をもしてはならない」(出エジプト 20:8~ 10)という戒めに対して、自分は何km以上歩いていないし、何文字以上書いてもいない、何kg以上の荷物も持っていないから律法を守っていると考え、一方イエスが病人を癒やすと律法に反していると怒り出すような考え方です。

 パウロはかつてファリサイ派の一員であり、律法主義の中で生きていました。ですが、復活のキリストが出会ってくださったことにより、律法主義の間違いに気づき、本来神が律法を与えてくださった意図を全く理解していないことに気づいたのです。なぜなら「律法の義については非のうちどころのない」と言えるほどに律法を守っていたのに、イエス キリストを理解できませんでした。イエス キリストが救い主であることを知ったとき、自分が神の救いを拒絶してきたことを気づいたのです。今まで律法を学び行ってきたけれど、神の御心を全く理解できなかったことが分かりました。今までの自分の信仰のあり方が間違っていたことに気づいたのです。
 だからパウロは言います。「罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。」(11節)パウロは、神が差し出していてくださる命を拒否していたことに気づいたのです。

 そして律法主義の間違いに気づき、キリストを救い主として信じると、自らの罪に分かるようになりました。パウロはこの7章のもう少し後のところでこう言います。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」(ローマ 7:18~20)

 パウロは律法主義は捨てても、律法を捨てた訳ではありません。パウロは神の御心をなしたい、善をしようと願います。しかし、神の御心をなしたいと欲しても、それをする力が無いことに気づきます。自分の思い、自分の考え、罪ある自分自身がなくなりません。自分とは別に罪があるのではなく、自分自身がまさしく罪人なのです。罪人であるこのわたしが救われなければならないのです。罪の世にある限り、何度でも悔い改め、聖霊により新しくされ、清め続けて頂かなくてはなりません。わたし自身が神の国に入り、救いが完成するまで救われ続けなければなりません。

 しかしこの世は、律法主義であることを求めます。現在、わたしたちの周りには数え切れないほどの法律があります。そしてわたしたちの行動が法律に触れるかどうか問われています。裁判ともなれば、まさしく律法主義と同様に、法律に適っているかどうかが問題となります。つまり、罪の世は律法主義であり、罪人は律法主義を抱え持っているのです。
 しかしパウロは、神がキリストを遣わして、キリストと共に死に、キリストと共に復活するその恵みを知ったのです。キリストを知り、救いを知ったとき、パウロは律法主義から解放されたのです。

 キリストの救いを経験したパウロは、律法と罪を理解し直しました。その理解が12, 13節に書かれています。「こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。」

 律法が善いものであっても、罪あるわたしは善く用いることができません。罪を正しく知るとき、いよいよキリストの救いを求めます。そして自分の業も自分自身も神の御手に委ねるのです。そしてキリストの掛け替えのなさに気づくのです。
 エフェソの信徒への手紙で、パウロはこう書いています。「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」(エフェソ 3:17~19)

 パウロは、ローマの人々が律法と罪を正しく知り、キリストの救いを切に求めるようになってほしいと願ってこの手紙を書いています。そして今、キリストを遣わすほどにわたしたちを愛していてくださる神ご自身が、キリストの救いを求め、救いに与ってほしいと願って、このローマの信徒への手紙を通してわたしたちに語りかけておられるのです。

ハレルヤ


父なる神さま
 どうか律法と罪を正しく知り、律法主義の自己満足から救い出してください。キリストと一つに結び合わせ、その十字架と復活に与ることができますように。キリストと共に死に、キリストと共に生きる者としてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン