聖書の言葉を聴きながら

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ローマの信徒への手紙 9:30〜10:4

2020年1月19日(日)主日礼拝  
聖書:ローマの信徒への手紙 9:30~10:4(新共同訳)


 パウロは言います。「兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。」パウロが救われることを願っているのは、旧約の民イスラエルのことです。彼らは父祖アブラハム以来の長い歴史の中で、イスラエルと呼ばれ、時にヘブライ人と呼ばれ、そしてユダヤ人と言われてきました。
 パウロは問います。「義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。なぜですか。」

 周りの民が偶像を礼拝しているのに、イスラエルは神の言葉を聞き続けてきました。そして救い主の到来を待ち続けてきました。パウロもその一員として熱心なユダヤ教徒として歩んできました。
 しかし復活のキリストに出会ったとき、パウロは自分の信仰の間違いに気づかされました。パウロイスラエルも、行いによって義に到達できるかのように考えていました。そう考えるのも仕方ない面もあります。人間の罪によって神との関係が崩れてしまいました。ですから、人が律法を守り罪から離れることによって、神との関係が回復すると考えました。旧約の中でも、イスラエルが神の言葉・戒めを破ることによって裁かれることが繰り返されてきましたので、律法を守り、神に喜ばれる民になろうと考えられてきました。

 パウロもそう信じてきました。しかし復活のキリストと出会ったときに変わりました。キリストが十字架で死んで、パウロは神を冒涜する者を排除できたと考えていました。しかし、神が復活させられたキリストに出会い、目を見えなくされて、思い巡らすの中で(使徒 9:1~22)、イエス キリストが誰であるのかを知るに至りました。

 自分もユダヤ人たちも、イエス キリストに躓いたのです。その事に気づいたとき、33節に引用されたイザヤ書の言葉(イザヤ 8:14, 28:16)が分かるようになりました。「見よ、わたしはシオンに、/つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない。」イザヤが言った「つまづきの石、妨げの岩」とはイエス キリストだったのです。イエス キリストを信じ受け入れることが、神の御心を受け入れる鍵だったのです。

 そもそも律法は、イスラエルが考えてきたような義を得るためのものではありませんでした。律法を守れなかったときのために、様々な献げ物が定められています。神は、律法を落ち度なく守って、自分の力で義を得なさい、とは考えてはおられません。
 これまで語られたように、神の民の祖であるアブラハムにも「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記 15:6)と言われました。初めから神は「信仰による義」を与えようとされていたのです。
 それなのにイスラエルは行いによって義を得ること、義に到達することを求めてしまったのです。

 律法は、神が与えてくださったものですから、大切なものです。しかし、それは義に達するためのものではなく、罪の世で、神と共に、隣人と共に生きるための恵みだったのです。

 ですが、罪を抱えたわたしたちは神の御心に従うのではなく、自分の力でやりたいと考えてしまいます。自分の信仰を誇りとしたくなったり、自分で努力せずに初めからキリストに依り頼むのはダメじゃないかと考えたりします。
 パウロはそれを「正しい認識に基づくものではありません」と言います。

 信仰において大切なのは「神の御心」です。罪はその神の御心を受け入れられないことです。ですから、神の御心を無視して、自分は律法を守って自分で努力して義に到達しようとするのは、全くの的外れです。ちなみに罪のギリシャ語ハマルティアには「的外れ」という意味があります。
 ユダヤ人が熱心であることは、パウロも認めるところです。しかし神の御心に思いを向けることができない中で、熱心であるとき、自分の考え・善意が神の御心にかなう最上のものであるかのような勘違いが生じてしまします。

 救いにとって鍵となるのは「義」という言葉です。アブラハムに対しても「主は・・義と認め」られたと言われています。義というのは、正しい関係を表します。聖書では、神との正しい関係を表します。正しい関係は、共に歩める関係です。共にあることを喜べる関係です。神がわたしたちに求めておられるのは、この義なる関係、正しい関係です。
 わたしたちは関係の中で生きる存在です。神との関係、夫婦の関係、親子の関係、友人関係、仕事のつながりの関係、近隣との関係、社会・国・世界との関係。わたしたちは関係の中で生きています。その関係の基本、根底にあるのは、神との関係です。神との正しい関係が築かれるとき、わたしたちが抱えるすべての関係を神に祈り、神の導きに委ねていくことができます。わたしたちの罪に対して、ひとり子を遣わしてまで罪を贖い、救ってくださる神は、わたしたちに与えられているすべての関係がよきものとなるように導いてくださいます。

 しかし問題は、わたしたちは罪ゆえに神との間に正しい義なる関係を築くことができません。罪のせいでわたしたちの思いは、常に神の思いと違ってしまうので、正しい義なる関係が築けません。わたしたちの内に神の義はないのです。ここが分からないと、わたしたちはどこまでも自分の義を求め、神に自分の義を押しつけようとしてしまいます。
 律法も神の御心とは関係なく、自分の義、正しさで運用します。安息日には、どれくらいの距離を歩いてもいいのか、重さはどれくらいまで持っていいのか、文字は何文字書いていいのか、神の御心とは無関係に基準を決めていきます。現代の教会でも規則の運用などいろいろな基準、線引きがされます。そこでは主に公平という観点、組織の維持という観点から基準が設けられます。はたしてそれは神の御心にかない、神の栄光を現すものとなっているのでしょうか。

 罪あるわたしたちには、神の義が必要なのです。神の義とは、神が与えてくださる正しい関係です。神はご自身の義をイエス キリストにおいて与えてくださいました。イエス キリストこそ神の義なのです。
 神が与えてくださる義、神が正しいとされる関係は、神を信じるという関係です。わたしたちを造り、愛しておられる神を信じるのです。イエス キリストにより罪から救い出してくださり、神の子としてくださる神を信じるのです。神の許にわたしたちの命があり、未来があり、幸いがあることを信じるのです。この信じる関係を、神はイエス キリストにおいて与えてくださいました。わたしたちは信じるという仕方で、神との正しい関係、神の義に入れられるのです。
 そしてわたしたちは、イエス キリストによって与えられた神の義によって、神と共に生きる新しい命へと招き入れられたのです。

 イエス キリストへと思いを向けましょう。イエス キリストこそ、律法が指し示していた方、律法の目標なのです。律法が、神を愛することと、隣人を愛するために与えられたものであることを明らかにされた方です。神の言葉、神の御心を明らかにし、成就された方。そしてご自身を信じる者に義、神との正しい関係を喜ぶことのできる関係を与えてくださる方なのです。

 どうか教会へと導かれたお一人お一人が、礼拝においてイエス キリストに出会い、喜びをもってキリストを知り、神の義に生きることができますように。イエス キリストが自分と共にいてくださることを知り、キリストと共に救いの道を歩み行くことができますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたはわたしたちにイエス キリストにより神の義を与え、あなたを喜んで生きる救いに与らせてくださいました。神の義も救いも、あなたから来ます。自分の義への囚われを捨てて、あなたと共に生きるあなたの子としてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン