聖書の言葉を聴きながら

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ローマの信徒への手紙 6:5〜11

2020年2月12日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 6:5〜11(新共同訳)


 パウロは、「キリストを信じることにより与えられる神の義によって救われる」(3:21~)ということを丁寧に語ってきました。キリスト以外のものに望みを置かないように、割礼や律法を守っていることで自分を誇ることがないように、神がイエス キリストを遣わしてどれほど大きな恵みを注いでくださったかを語りました。

 しかし、神がわたしたちを罪から救い、わたしたちと共に生きたいと願っておられるのに、罪は神の御心をねじ曲げることを考えます。
 「罪が増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれたんですよね。それなら、恵みが増し加わるために罪に留まったらいいんじゃないでしょうか。」(6:1)「恵みが増し加わるのを期待して、罪の中に留まる」のはどうでしょう(フランシスコ会訳)。

 実は、このような言い方は、神に従うのを拒む人によってだけではなく、熱心に神に従おうとする人からも言われてきました。
 日本キリスト教会は改革派教会の伝統に立つ教会です。改革派教会は、救いについて「イエス キリストによってのみ救われる」と告白してきました。しかしこの理解は、公同の教会の中からも批判されてきました。何と言って批判されたかというと「キリストによってのみ救われるという教えは、善を行わない人間を育てる悪い教え」であると。つまり、キリストによってだけ救われるならば、人は救いのために何もしなくてもよいことになる。そうなったら、人は善を行おうとしなくなるだろう。キリストによってのみ救われるという教えは、善を行おうとしない人間を育てる悪い教えであると。

 しかし、「善を行おうとしないだろう」という人間の予測で聖書の教えを決めるのではありません。神の言葉である聖書が何と言っているかが問題なのです。
 パウロは、「恵みが増し加わるために罪に留まったらいいんじゃないでしょうか」と言われるほど徹底してキリストによる救い、キリストを信じる信仰の義について語りました。そのパウロが「恵みが増し加わるために罪に留まったらいいんじゃないでしょうか」という皮肉な問いかけに何を答えたかというと、「決してそうではない」と言って洗礼の秘義を示したのです。
 洗礼は、キリストと一体とされる神の秘義を指し示すものです。罪人をキリストと一体として、キリストの十字架と復活の恵みに与らせるという神の奇跡を洗礼は証ししています。

 キリストによって救われると言うとき、どう救われるのかというと、わたしたちの救いのために人となられたキリストと一つにされるのです。特に、救いの現れである「十字架・復活」と一つにされる。つまり、キリストの「死と復活」と一つにされるのです。
 一つとなり、一体となるということは、もはやキリストと分けることはできず、キリストのすべてに与るということです。そして死ぬということは、罪との関わりが断たれるということ。復活するということは、キリスト者となる、神の民、神の子とされるということです。
 キリストを救い主として信じ、洗礼を受けるということは、キリストと一つとされて、キリストと共に生きるということなのです。

 だからパウロは言います。「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」(6:6~8)

 ここで問題なのは、洗礼を受けた自分自身が、未だに罪を犯しており、罪から解放されているとは思えない、ということです。これはわたし自身ずっと感じ続けてきました。
 わたしは洗礼を受けたら、細かなことにいつもイライラせず、寛容で穏やかな人間になれると期待していました。しかし洗礼を受けて何年経っても、そんな風になることはなく今に至っています。

 けれどわたしは今になって、わたしの理想、わたしの期待どおりにならないことが神さまの訓練だと思っています。仮にわたしが信仰の修養を経て、キリスト者らしい寛容で穏やか、愛に満ちた人になったとしましょう。そのときわたしはきっと、自分に自信を持ち、自分を誇るようになるだろうと思います。そして自分の罪に苦しむ人に「信仰生活を続けていけば、必ず変われます。わたしも変わりました」などと重荷にしかならないことを無責任に負わせることになるだろうと思います。

 わたしたちはキリストにますます依り頼むために、赦された罪人として歩んでいくのだと思います。救いに到達してしまった者としてではなく、完成の途上にある者として生きるのだと思います。パウロ自身こう言っています。「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。」(フィリピ 3:13~15)

 わたしたちは実感がない中で、神の言葉である聖書とイエスが与えてくださった目に見えるしるし、聖礼典により、信仰に生きるのです。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」(ヘブライ 11:1)なのです。

 何を確信し、何を確認するのかと言うと、それはきょうの御言葉です。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」(6:8~11)

 キリストと一つになった実感はありません。けれど、神のひとり子イエス キリストは、わたしたちの救いのために人となってくださったのです。そしてご自身の命をかけて十字架を負い、そして復活してくださいました。これはあなたのためだとイエスはご自身の存在を掛けて証ししておられます。そして、イエス キリストを指し示す旧約39巻、新約27巻の聖書も、神の御心はあなたがイエス キリストによって救われることだと証ししています。さらに、イエス キリストの名によって建てられた公同のキリスト教会で、キリストが復活された日曜日ごとに礼拝が守られ、聖書が朗読され、解き明かされ、洗礼と聖晩餐の聖礼典が執り行われて、皆さん一人ひとりに神の救いの出来事を宣べ伝えています。

 神の言葉は出来事となります。神の言葉は真実で揺るぎません。イエス キリストご自身がそれを証ししておられます。神の言葉は救いの出来事を成し遂げ、わたしたちの内に信じること、信仰を創り出します。
 イエス キリストに出会い、父・子・聖霊なる神を知り、その救いに入れられるとき、わたしたちは神の恵みに生きる幸いに与ります。その時にはもはや「恵みが増し加わるために罪に留まるべき」とはつぶやかないのです。
 聖書は語ります。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ 2:20)「わたしにとって、生きるとはキリスト」(フィリピ 1:21)なのです。

 命は神の奇跡です。創造の奇跡により命を与えられ、救いの奇跡によりキリストの復活の命、永遠の命に入れられました。神の救いの恵みにより、わたしたちは今、キリストと一つにされて生きているのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたの奇跡によってわたしたちは今生きています。イエス キリストと一つにして、神の子としてくださったことを感謝します。御言葉に導かれて、イエス キリストを仰ぎつつ、信仰に生きることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン